雨の倫敦(その2)

独りでいると、悲しいことしか考えられない。
なにもかも、最悪の可能性ばかりに考えが及んでゆく。
苦しくて、苦しくて仕方がない。

ザラ・イマエワは、「現在表舞台に立っている人物で
チェチェン国民を率いられる人間はいない」といった。
「誰もがこの戦争犯罪に責めを負っている」と。
そのうえで、「イリヤス・アフマドフは問われるべき罪がない」とも。
アフマドフ・プランは実際、欧米が推せるチェチェン和平案の
もっとも有力なものだろう。

ゲラエフは信仰の人だと、私は思った。
しかしだからこそ、アブハジア侵攻作戦は謎だった。
強力な信仰心に支えられていなければ、10年に及ぶあんな無茶な戦いは
無理だろう。
ザカエフが戦線離脱したのは、負傷を考えれば無理もないのだが、
たとえ四肢が不自由でも踏みとどまって戦っている戦士たちはいる。
もちろん、国外に出て政治の舞台で戦った方が、実際のところ効果的だし、
ザカエフの判断は理性的だ。
四肢を失ってすら戦っている戦士といえば、バサエフだってそうだ。
ではバサエフは理性的ではないのか?
ああ、よく分からなくなってきた。

島原の切支丹農民たちは強かった。
彼らがあまりにも強かったからこそ、それに恐れ、
慄いた幕府軍の政策は過酷を極め、
切支丹戦争は日本史上もっとも無慈悲な全滅戦となった。

私のチェチェン戦争史観には、アフガン人の対ソ連ジハードと、
故郷島原での切支丹戦争が影響している。
一向一揆太平天国、etc…どれも一神教だ。
なぜ、神を信じたとき人は普段の暮らしの中でありえない力を
発揮するのか?
私も信仰によって強められるのか?
私が自分の目で見たチェチェン聖戦士たちは確かに、
私の想像も及ばぬ程に強い人たちだった。
信仰と理性を両立させることができなければ、
究極の現実主義だけが生き残る戦場の現場では勝てないはずだ。