世界の中心で

村上龍の「希望の国エクソダス」を読みました。
以前から読んでみたいと思っていた作品です。
冒頭で、16歳の日本人の少年がパキスタン北西辺境州の
パシュトゥン人部族支配地域で現地に溶け込みながら、
地雷除去作業に携わっているくだりがあり、
知り合いから、このエピソードとハワジの符号を指摘されていたからです。
世界から顧みられない辺境の地に、
日本の若者が生きる希望を見いだすというエピソードでありながら、
ドメスティックなテーマの作品だと思いました。
この少年は冒頭でニュースとなって世間を騒がしたあと、
ラストシーンまで全く出てこないのです。
その間、この少年に触発された中学生たちが国内で、
日本を震撼させる「叛乱」を起こすエピソードが描かれてゆきます。
実のところ、著者が問題にしたかったのは
あくまで日本国内の閉塞感だったのだと思います。
著者にとっては、パシュトゥンの部族支配地域が
アフリカのどこかの奥地でも、ニューギニアの高地でも、
違いはなかったのでしょう。
部族支配地域はあくまで、「とんでもなくへんぴなどこか」
として描かれただけです。
パシュトゥニスタンやアフガニスタンチェチェンが、
実は世界の中心だということに多くの人たちが気づいたのは、
去年の今頃より少しあとのことでした。
私たちの住む世界が世界の全てではなく、
パシュトゥニスタンともチェチェンとも繋がっていて、
辺境で起こっていることは決して私たちと無関係ではないのだと、
この頃、時代を先取りすることでは定評のある村上龍氏でも
気づいていなかったのかも知れません。
凄惨な事件のあと、しばらく、私たちは自分たちがいる場所が
実はどんな場所だったか分かって、恐ろしくなりました。
でも、フットボールのお祭りで汗を流すと、気分を一新して、
また忘れてしまったようです。
でも実際には、依然として世界の中心にいるのはハワジの方で、
私たちではありません。
ハワジを「平和なこの時代に戦場へ行く変わったやつ」
と表現したあのテレビ局は、
次はいつ頃、自分たちの居場所の覚束なさに気づくでしょう。