サバウーン

サバウーン大臣の来日は、ぼくが仕掛けたことではありません。同志社大学
中田考教授のしわざです。ぼくが誘拐されていて、不在の間に大学を動かして
決めてしまわれたのです。
ぼくが解放されて、自分の誘拐事件の主犯がラティフだと暴露し、それが
サバウーン大臣の直接の部下だと分かったとき、中田教授は「それはまずい!」
と、慌てていらっしゃいましたが、結局、「なるようになるさ」ということで、
そのまま招聘してしまわれました。事件前には私はサバウーン大臣にとても
よくしていただいていたので、大臣自身が事件に関与しているなどとは
夢にも思いません。しかし、事件の途中からは、カルザイ大統領と共に、事実に
気づいていただろうと推測しています。
結果的には、アフガニスタンを再訪して取材・解明しなければ、と思って
いたことの一部が、大臣の来日のおかげで、図らずも分かってしまいました。

ヒズビ・イスラミ内部にタリバンと和解を主張するアルガンディワルと、
タリバンとの対決を主張するサバウーンの派閥対立があり、ぼくが誘拐
されている間にサバウーン派が主流派の地位を獲得して、アルガンディワル派
を排除していたのです。ですから、現在の政府側ヒズビ・イスラミは基本的に
主戦論一色になっています。
ぼくを誘拐したグループの支配地域で、サバウーンの人気は凄まじいものが
ありました。まさに英雄です。サバウーンは同志社大で配布した資料など
では、「クナール州の出身」としていましたが、本当はクンドゥズ州アルチ、
つまり、ぼくが監禁されていた場所の出身です。
同志社大の資料で書かれていなかったことは、彼がタリバンと戦い続けた
北部同盟の大幹部だったということです。北部同盟は独自の「政府」を
名乗り、「閣僚」を配置していましたが、サバウーンはその政府の
財務大臣」を三年間、務めていたのです。そして、その頃の彼の最大の
部下がウズベク人のラティフ司令官でした。つまり、今回の事件の主犯です。
一般に知られている事実としては、ヒズビ・イスラミは北部同盟に参加して
いなかったことになっています。ですから、サバウーンやラティフはヒズビ・
イスラミ主流派の方針に逆らって、勝手に北部同盟に参加していたという
ことになります。
97年頃までは、サバウーンはヒズビ・イスラミ創始者で初代党首の
グルブッディン・ヘクマティヤルの片腕と呼ばれ、党内ナンバー2とされて
いました。