ロゴヴァス・キャンプ

 ドアを叩かれて、起こされると、11時前だった。宿のおかみは「チェックアウトは10時だよ。もう、1時間過ぎてるよ」と急かす。昨日の50ルーブリを返すつもりはもちろんない。荷物を纏めて、宿をあとにした。
 バザールは完全な無人で、なるほど今日はイードなわけだ。カフェは一軒も開いてないので、朝食が食べられない。バザール入り口で雑談していたイングーシ人の警察官に呼び止められたので、難民キャンプへ行きたいのだと説明した。
「一番大きなキャンプはスレプツォーフスクにある」
「あそこはどうですか?ほら、古い列車の車両に難民たちが住んでいた」
「あそこはもうないよ。でかいキャンプは全部閉鎖された。チェチェンに戻されたんだ。しかし、ほら、すぐ近くに小さいのが残っている」
 警察官は私を案内してくれた。それはバザールからほんの数百メートルのところにあった。プレハブの小屋が広場を囲むように立ち並んでいた。30世帯分ぐらいだろうか?
 老人が出てきて、家に案内してくれた。4畳半程度の一部屋きりの家の中にはベッドとなる部屋半分程度広さの段差のようなものがしつらえてあって、残りのスペースに木のテーブルと椅子があった。テーブルの上には山盛りの果物と、ここではカツレツと呼ぶハンバーグのような料理、クールィ・グリーリと呼ぶ鶏肉の焼いたもの、つまりロースと・チキン、色とりどりのケーキ、クッキー、キャンデーなどがあった。
 老人はカザフスタン生まれだった。
「長く生き過ぎるのは、いいことばかりじゃないね。チェチェン人は50年毎にロシアから絶滅させられそうになる。私は長く行き過ぎたせいで、二度も絶滅作戦を見る羽目になってしまった」
 老人の息子ムラートが私を自室に連れて行って、休ませてくれた。彼と奥方と赤ん坊のラスールの写真を撮った。コダックの店が開いたら、現像を試みよう。ムラートはさらに、友人たちを紹介してくれた。ワーハ、ゼリムハン、シャミル、リズヴァンの4人だ。私は4人の部屋に泊めてもらった。
 昨日モテルで撮った若い男女の写真を見せると、4人は呆れていった。
「○○と○○だ!あいつら、まったくしょうがない」
「知り合いなのか?」
「プリスティトュートカ(娼婦)だよ。ちっ!シャリーアに従って罰すべきだ」
 驚いた。
 男女関係におおらかなイスラム色の薄い異民族かと思っていたらチェチェンカだったのだ。それに、若い恋人たちだと思ったら、娼婦と客だったとは。今や世界中でもっとも敬虔というべきチェチェン人の中にも娼婦がいるのだ…