死せる子(その1)

 午後4時、徒歩で教職員委員会へ。代表のエレナ・カスモワさんは若くてギャルギャルだった。
「人質たちはみんな見ています。彼らはナマーズ(礼拝)なんかしなかったし、粗暴な言動を繰り返していた。人質の見ている前で麻薬をやっていた」
 72歳の婦人が訪れていった。「これ以上、生きていたいと思わないよ。16歳の孫が学校で死んだ。こんな悲しいことがあるのは、私が長く生き過ぎたからだ。本当は、初めから分かっていたんだよ。全部書いてあったのさ、聖書にね。『人々は人々の敵となり、互いに相争うだろうだろう』と」
 委員会事務所の表の壁に、ベスラン事件の被害者の消息一覧が張り出してあった。「死亡」「病院」「モスクワへ」「自宅へ」などと書かれている。「モスクワへ」とあるのは、負傷の程度の深刻な人たちで、モスクワの病院に長期入院中ということだ。「自宅へ」は負傷などが回復して帰宅したか、無事だったことを示す。カスモワさんによると、当初150人以上の消息が不明だったが、現在子ども4人だけが不明となって、両親が探している。残りは遺体の人定が判明し、埋葬を済ませたという。
 一人一人の名前を見てゆくと、「オレーグ」、「ウラジミル」といったロシア・スラヴ名、「アラン」などオセチア独特の名前の他に、ムスリム名がかなりあった。イングーシ人やタタール・トュルク系の子どもたちだろう。生年月日は当然ながら90年代が圧倒的に多い。
 99年と2000年にイングーシを訪れたとき、ナズラニが首都だった。それが現在、ナズラニに隣接して新都市が建設された。その名をマガスという。明日の朝、8時にこのホテルを出ることにした。そうすれば、安いバスを捉まえられる。ホテルの女主人が教えてくれた。ナズラニかマガスか、どっちかで適当な宿を探そう。今度は安いなりに、シャワーぐらい浴びれるところがいい。もう、ここで二日間、身体を洗っていない。
 教職員委員会の帰りに、インターネットクラブを見つけたが、二台しかないコンピュータは動いていなかった。インターネットカードは見つからない。たとえ見つけても、ホテルには電話がない。諦めて、帰り道のカフェで夕食を取った。ソリャンカと肉料理、タルフーンの中瓶とお茶で154ルーブリ。(その2へ)