キルクーク(その3)

 イラク当局は日本人を全員、北部変電所に集めようと計画していたが、ダンサー村岸さんがこれを拒否して早々に北部浄水場に張り付いていたし、安田純平くんらはドウラ発電所に泊まりに行ってしまった。私と久保田弘信氏は市内に潜伏してしまったしで、イラク当局の計画は失敗してしまった。
 この変電所には後に実際に複数の「人間の盾」が配置された。被害はなかった。
 日本人「盾」のキルクーク配置を決めた時点で、イラク当局には私たちを事実上の人質として利用しようという考えがあったのかもしれないと思う。ジャミーラさんはたぶん、そんなことは信じない。逆に私の方は、サダムとサダムの取り巻きのやることを初めからまったく信用していなかった。根拠がある。サダム政権がキルクークの油田を巡って、これまでどんなことをしてきたか、10年前から聞いていたからだ。
 今日の夕方、キルクークの元イラク軍駐屯地で、司令官官舎の大理石の床の上で遊んでいる裸足の少女を見た。官舎は空爆で破壊された上、略奪、放火されて廃墟と化していた。水道も電気も止まったきりのその建物に、少女の一家は住んでいた。
 一家は4月30日にここに来たばかりだった。それまではアルビルで難民生活をしていた。15年前からだ。一家の父親マスード氏は88年のサダムのアンファル・オペレーションの生き残りだった。
 アンファル・オペレーションとは、85年から89年までサダムがクルド民族に対して行った壮大な民族浄化作戦で、クルディスタンの村々が何の前触れもなく、突然現れたブルドーザーによって破壊され尽くした。家財道具を運び出す時間も、人によっては崩れる家から脱出する時間さえもなかった。抵抗の素振りを見せたものはその場で処刑されるか、連行されて、二度と帰らなかった。この時期に18万2000人が殺されたか行方不明になったといわれている。
 マスード氏の父親と叔父はこのときに殺害され、母親とは生き別れになった。
 その母親と、マスード氏はこの4月17日に、15年振りで再会を果たした。母親はラマディに逃れて生き延びていたのだった。サダムが去ったことで、全てがうまく回り始め、本来の姿に戻ろうとしているように感じられた。そしてマスード氏は、長かった避難生活に区切りをつけ、新しい生活を始めるために故郷のキルクークへ家族と身一つで出てきたのだった。(その4へ)