キルクーク(その4)

 マスード氏に限らず、キルクークにはアンファル・オペレーションの傷跡が至る所に残っていた。市の郊外には住宅地の真ん中に、突然なんにもない広大な草っぱらが広がっていた。そこにはかつて300世帯以上のクルド人市民が住んでいたが、ある日オペレーションで全て破壊され、更地にされてしまって、今もそのままだ。サダム政府はオペレーションの通告すらしなかった。住民はまったく突然に、住んでいた家も財産も全て失った。かつてそこに住んでいたというクルド人の男性に出会った。彼は今、この近くに住んでいるが、政府の移住許可を待っている。近くこの空き地に家を建て直したいと語っていた。
 2月にイラクに入国してしばらく、サダム政府の企画したツアーに乗っかって、彼らのプロパガンダを見せてもらった。「平和集会」と称するものではそのスローガンに「サダム・フセイン――人権と尊厳の象徴」と謳われていた。「ファッションショー」と称するものでは、古代シュメールからバビロニアと、イラクの土地に栄えた文明の習俗を紹介した最後に、サダム・フセイン政権下でのイラクの繁栄を暗示した映像で締めくくっていた。国営放送はサダムをネブカドネザル二世やハムラビ王になぞらえた歌を流し続けていた。それほど優秀な指導者だと宣伝したいのだ。
 見るたびにむなくそが悪くなった。今地球上に生存しているムスリムの中で、同胞をこれほど多く殺した人間は一人もいない。クルド人の蒙った悲劇はその際たるものだが、それだけではない。サダムはイランのムスリムを殺し、クウェートムスリムを殺し、自国のシーア派ムスリムをも似たような方法で殺しに殺してきた。彼を排除し、処罰することは本来イラク人自身の責任だった。それが不可能だとすると、次には世界のムスリム同胞に、自分たちの仲間から出た背教者を処刑する義務があった。間違っても米国に攻撃させるべきではなかった。それは責任の転嫁で、ムスリムの義務の放棄だ。そのうえサダムと関係のない、むしろサダムの被害者の市民を多数巻き添えにした。私はできることなら、シャリーアに従って自分の手でサダムを処刑したいと思っていたし、今もすべきだったと信じている。(その5へ)