理解不能という理解(その2)

日本人がイスラムを理解する方法はただ一つ、それはイスラムに帰依することだ。
もちろん、この場合の理解は宗教学や文化人類学などの立場から
アプローチする理解とは異なる。
絵に描いた餅は食べられないが、
自分自身が餅になってしまったらやはり餅の味は分からないのだ。

モスレムになったからといって、
日本人がアラブやペルシア、テュルクの歴史や環境を
共有できるようになるわけではない。
日本人モスレムはあくまで日本人であり、
アラブやペルシアのモスレムとは基本的なエモーションのパターンが異なる。

しかし、自らがモスレムになることで、
日本人の非モスレムには永久に理解不能であった
唯一神に対する心情、世界に対するスタンス、
異教徒に対する心情は分かるようになる。

また、欧米的価値観や日本独自の価値観を基準とする考え方から自由になれる。
たとえば、既に日本のメディアのほとんどが
一般的に使うようになってしまった「イスラム原理主義」という概念・・・・

この語はアメリカのメディアが元々あった「キリスト教原理主義」という語に
イスラムを当てはめて作った造語だが、定義に自己矛盾を含んでおり、
誤った用法であることは、私たちモスレムには容易く理解できる。
モスレムの文脈からこの語を考えると、
イスラムはそれ自体が原理主義であると考えるか、
あるいはイスラムには原理主義が存在しないと考えざるをえない。

自分たちの信仰する宗教の教義に沿って生活することは
聖俗一致のイスラムでは当たり前のことだが、
現代のキリスト教徒や仏教徒の大多数の立場からみると、
彼らの常識からかけ離れたスタンスとなる。

私たちモスレムの立場から考えると、
教義そのものに無理があるから、キリスト教徒や仏教徒
世俗生活と宗教生活の間に軋轢が生じやすく、
忠実に教義に沿った生活を送ることが難しいし、
無理をしても教義に忠実であろうとする人たちが、世俗社会に不適用をきたして、
原理主義者」という名の特殊な立場に分類されてしまう、ということになる。
(その3に続く)