理解不能という理解(その3)

欧米の立場でいう「原理主義者」の今最も人気者といったら、
なんといってもウサマ・ビン・ラディン氏であろうが、
では、彼をモスレムの立場から表現すると、どうなるかというと、
つまり彼が考えるイスラムとはそのようなものであったということだ。

イスラム社会は多様であり、トルコからサウジアラビアまで、
イスラムに対する解釈は千差万別だ。
酒を飲むトルコのモスレムが考えるイスラムの姿とはそのようなものであり、
ビン・ラディン氏の考えるイスラムの姿とは異なっている。
どちらがより真実にイスラム的であるかということは、
神ならぬ私たちにはいうことができない。

自分が信じているように生きてゆくのが原理主義者なのだから、
ビン・ラディン氏が原理主義者であるとすると、
酒を飲み、礼拝や断食を守らないモスレムが
また別の原理主義者であってもなんの矛盾もないし、
逆に原理主義者でないモスレムとは何者なのかという疑問が出てくるだけだ。
ぜんたい、アラビア語トルコ語、ペルシア語に、
原理主義」の訳語は今でも存在しない。

原理主義」という概念はむしろ、宗教生活に破綻した欧米社会の
矛盾から生まれた語であり、「宗教は必ず世俗生活と対立する」と思いこんで、
分かったつもりになった、欧米人の偏狭な心を体現した語といえよう。

まあ、これは理屈の話、少しの冷静さと客観性があれば
非モスレムにも理解可能な範囲の説明だ。

キリスト教社会の聖と俗の軋轢の歴史はイスラムには共有されておらず、
イスラムにはまた別の聖と俗の関係の歴史がある。
その歴史が、イスラム社会とモスレムのメンタリティをどう形作ってきたかは、
研究者によって理論的に説明できるだろうが、
非モスレムが自分のものとすることは永久にできない。

イスラムに帰依する意志のない非モスレムは、
イスラムを分かったつもりになるべきではない。
あなたには永久に辿り着けない境地がある。

中国人の目に、中国は少しも神秘の世界ではないが、
ベルトリッチが中国を神秘的に描いたのを見て初めて
東洋人たる私たちは中国の欧米とは違うある一面に気づいた。
ベルトリッチがそうしたように、理解できないという前提に立つことで、
むしろモスレムにも見えていないイスラムの側面が見えてくるはずだ。
非モスレムの皆さんに、そんなアプローチを期待したい。