理解不能という理解(その1)

ベルナルド・ベルトリッチというイタリアの映画監督は、
映画ラスト・エンペラーの中で中国を「神秘の国」として描いた。
冒頭、皇帝となる溥儀が西大后の死に立ち会う場面で、
彼女は城の中にいながら霧に包まれ、妖しげな言葉を残して息絶えるが否や、
口には魔除けなのか珠がはめ込まれる。
その描かれ方は、史実というよりはまさに現実離れした怪物だ。
そしてラストシーン、老人となった溥儀は
紫禁城玉座の陰から、少年時代に隠した虫籠を取り出す。
虫籠の中のカマドウマは時空を超えて生きていた。

私たちはもちろん、中国が実際にはそんな幻想世界でないことを知っている。
しかし、映画のそのシーンを見て、「そんな中国の見方は間違っている!」
と異議を唱えようとは思わない。
私たちは映画を見て、ベルトリッチが中国を
神秘の国と誤解して描いたとは思わない。
それは全て了解の上で描かれた幻想世界だ。
ベルトリッチはいわば、欧米人の目に映る、
中国の神秘的な側面を意識的に拡大し、具象化した。
彼の姿勢は、「私たちには本質的には東洋を理解できない」と認め、
理解できないことを前提としている。
理解できないからこそ、神秘的に見える。
その上で彼は、あくまで欧米の視点での中国像を描き出したのであった。
その作業は中国に文化的ギャップを感じない東洋人には
不可能なものであっただろう。

学生時代、卒論のテーマに「イスラム」を選んだ私は、
フィールドワーク等を進めるにつれて、
ベルトリッチのラスト・エンペラーを思いだしていた。
私が辿り着いた心境も同じようなものだった。
日本人には決して、本質的な意味でイスラムを理解することはできない。
分析を重ねて理屈の上で分かったとしても、
モスレムがイスラムを信仰する心情に私たち自身を投影して、
エモーションを追体験することはできない。
私たちが背負ってきた歴史、文化、環境と彼らのそれとの間に
共有できるものがあまりに少ないせいだ。

ベルトリッチが中国を理解できないという前提に立って初めて、
中国を表現できたように、
日本人はイスラムを理解する機会を初めから失った民族として
イスラムと対面しなければならないし、
理解しているという思い込みを避けなければならない。(その2に続く)