デリー再び

パキスタンを出国し、夜行列車でデリーにやってきた。
ここで年明けを迎えることになるが、本当はそれだけは避けたかった。
デリーは5年前から変わらず、町中うんこであった。
およそ6割が牛の、3割が犬の、残る1割が人間のと思われる。
うんこだらけの年明けを迎える運命だ。

そうなんです。
私はどうしてもインドが好きになれない。
この国の政府も土地も人々のメンタリティも大嫌いだ。
カレーはうまいけど。

デリーへの列車の旅の途中で降りたジャランダールという小さな町では、
駅のホームで痩せこけた子供たちが手を差し伸べてきた。
物乞いは私にとって少しも珍しくないし、その前の日にも隣のパキスタンでも
あまたの物乞いと接してきたところだが、こちらは思わずこちらが竦んで
しまいそうなほど、ひどいなりと必死の形相をして、下腹を膨れさせていた。
インドはパキスタンより経済状態がマシだそうだが、パキスタン
比べ物にならぬほど物乞いが多い。
そしてパキスタンと比べ物にならぬほど、彼ら貧者はみじめで救いがない。
この国では物乞いは死ぬまで物乞いだし、物乞いの子どもも孫も代々
物乞いとなるしかない。
つまり、何千年も前から固定化された世界で、未来永劫何も変わることが
ない。
パキスタンだって、世界の中でもイスラム世界の中でも、ろくでもない方から
数えるしかない国だが、インドからくるとすばらしい世界に思えてくる。

貧しいのは仕方がない部分もあるし、インドよりも貧しい国はいくつも
あるが、私がインドにてどうしてもいやでいやで仕方がないのは、
現状をどうにも変えようとしないことだ。

ガンジーは偉かったけれど、彼は南アでインド人の権利獲得のためだけに
奔走し、肝心のこの国のアパルトヘイトには一言の異議も唱えなかった。
その彼が帰国後、パリアと呼ばれる不可触賤民のためには戦ったが、
この国のカースト制はむしろ積極的に肯定した。
そのインドが独立時にパキスタンに去られたのはあまりにも当然だった
と思う。
印パ間には唯一陸路国境越えできるワガ・ボーダーがあって、そのパキスタン
側のゲートには「バーブ・アザード(自由の門)」という巨大な札が
掲げられている。
いきなりここを訪れると、パキスタンの不自由さを知っている外国人は
違和感をおぼえると思うが、あまりに未来に可能性のないインドの事情を
思うと、パキスタンを建国した人たちがここにそんな名前をつけた気持ちも
分かる気がする。