自由の国(その1)

 ジュネーブおフランスとの国境に近い街で、私たちが泊まっている国連の宿泊施設はさらに国境近くにある。なにしろ携帯の電波がスイスコムよりもフランステレコムの方が入りがいい。
 午後からウクライナ人青年僧侶のセルゲイとチェチェンの少年ムハンマドとの3人で、自転車に乗ってフランスのスーパーへ夕食の買い出しにいった。フランス領のスーパーはスイス領よりも値段が安いのだ。
 自転車は宿泊施設で無料で貸してくれた。3台の自転車で風を切って、森のあぜ道を抜ける。バス通りに出て、しばらく行くと国境の検問所があった。が、無人だった。誰もが何の障害もなく素通りしてゆく。実をいうとムハンマドのビザはスイスだけに有効なもので、フランス入国は違法となる。だが、誰も咎めない。
 買い物をしながら、ムハンマドはセルゲイに訊いていた。
「なぜここの人たちは、こんなに優しいの?」
 私たちはスイスでもフランスでも、特に誰かに具体的な親切を受けた心当たりはなかった。むしろ私の目には、スイス人は外国人を見ても珍しがってくれない分、構ってくれなくて寂しい。ムハンマドがいっているのはそういうことではないと、私には分かった。彼にとって、道を歩いていて警察官に呼び止められたり、脅されたりしないということは、それだけで「こんなに優しい」ということなのだ。国境どころか、町から町へ移動するたびに、検問所で行列を作って待ち、プライバシーもへったくれもなくパンツの中まで調べられ、誘拐されたり、賄賂を要求されないということは、それだけで「優しく」してもらったことになる。
 つまり、ムハンマドにとって初めての、これが自由だ。
 宿舎を出たときには風が冷たかったのに、汗びっしょりになって私たちは帰った。(その2へ)