4年

おっかなびっくりで4年ぶりにグルジアを訪れたのだけど、拘束も暗殺も
されぬまま、のんびり毎日温泉に浸かってうまいものを食べている。

4年前、2001年の10月末から12月初めにかけて、グルジアの当時のシェワルナゼ
政権は、私を同国山岳地帯のパンキシ渓谷に閉じ込めて抑留した上、
日本政府の追及から私の存在を隠そうとした。
この年の7月から10月にかけて、私はグルジア国内に集結していた
チェチェン独立派ゲリラ部隊に密着従軍取材していた。
ゲラエフ元国防大臣率いる400人の部隊は、なぜか彼らが解放を目指す
チェチェンではなく、グルジアからの独立を宣言している西のアブハジア
侵攻した。
およそ4ヶ月間の戦闘と野営の日々の挙げ句、飢餓に陥った私たちの集団は
11人の戦死者を出し、敵方にも非武装市民を含む夥しい犠牲者を出して、
元いたパンキシ渓谷に撤退した。
私が見たのは、チェチェン戦士400人の道案内をするグルジア民兵集団と、
彼ら70人を率いるグルジア・スワネティ地方政府知事の姿だった。
私たちはグルジアのサメグレロ地方の言葉メグレル語を喋るドライバーの運転で、
グルジアの軍用トラックで移動し、グルジア軍のヘリコプターから物資の
投下補給を受け、このヘリコプターに乗って、アブハジアのコドリ渓谷から、
パンキシ渓谷に撤退したのだった。
これら、私が見た事実は、グルジア政府にとって重大な国家機密だったらしい。
パンキシ渓谷に一個所しかない外部との通路に設けられた検問所を、
私だけが通過する許可を与えられなかった。
日本政府の問い合わせに対しては、「常岡は入国した形跡も、ビザを取った
形跡もない。したがって、グルジア国内に常岡はいない」と、回答していた。
もちろん、私のパスポートには正規のビザも、その延長手続きの記録も、
入国スタンプもはっきりと、ある。
2001年12月、チェチェン人たちの協力によって、私は国際電話で日本側に
自分の所在を伝えることに成功し、グルジア政府は私を隠し切れなくなった。
当時のシェワルナゼ大統領は内務大臣を更迭し、外務大臣決済
によって、私の帰国を実現させたのだった。
バクー日本大使館の白石書記官が危険を冒して、私の身柄を引き受けに
来てくださった。

それにしても、ヒンカリはうまい。
トビリシは世界で一番美しい街かもしれない。
グルジア大好き。