嬉しい日

チェチェン戦争というのは、取材していてよかったと思うことが
まったくといっていいほどないところなのだが、今日は本当に嬉しかった。
イスタンブル近郊のチェチェン難民キャンプに、4年前から生死不明
だった友人が生きていたのだ。
彼は私とともにアブハジアにいて、4ヶ月間の野営と戦闘の日々の挙句、
重傷を負ったところまで知っていた。
今日、4年振りに再会した彼は、負傷した片足を切り落として、
義足で歩いていたが、元気に生きていた。

トルコのチェチェン難民たちの生活環境は劣悪だった。
世界最貧国のグルジアですら、チェチェン難民に食料を提供していたのに、
トルコ政府はバラックを立てる場所を与えただけで、完全に放置している。
その上、就業は禁止している。
子どもたちは学校に通う権利がなく、ごくまれに校長が認めたケースだけ
個別に学校に通っているが、卒業資格は与えられない。
実際のところ、ほとんどの子どもは読み書きすらできないままだ。

難民たちの中には、私がかつて逢ったことのあるものもしたし、
逢ったことはないけれど、報道されたニュースや知り合いの話で、
間接的に私のことを知っているというものもあった。
誰もが温かく私を迎えてくれて、マスハドフ大統領の死を悼む夕食会への
参加を許してくれた。
塩茹での羊肉が山ほど運ばれてきて、誰もが私に「もっと食え」といった。
食後に全員が殉教者の冥福を祈るドゥアーをした。

夕食会のあと、長老たちは夕日を背に、ズィクルを始めた。
私にとっては見慣れた光景だったが、私を連れてきたトルコの
チェチェン難民支援グループ「カフカスヤ・フォールム」の若者たちは
驚いてしまった。
彼らは4年間、この難民キャンプに通っているが、ズィクルを見たのは
初めてだったそうだ。

嬉しかったことの代わりに、悲しい話も聞いた。
私が仲良くしていた、勇敢なイスラム戦士が、今ではどうしたことか、
ロシア秘密警察の手先になって働いているというのだ。
私はこれを信じるべきなのかどうなのか、分からない。
チェチェンの誰もがお互いを信じられず、疑いあっていることを、
私はよく知っている。
誰かが誰かと対立したとき、必ず「あいつは実はスパイだ」という
話が出る。
たぶん、すぐに信じるべき話ではないのだろう。
もう少し、いろんなところで話を集めてみようと思う。