カジュアリティズ

 チェチェンイスラム戦士たちと長く付き合えば付き合うほど、私にはチェチェン人ではなく、彼らと戦争しなければならないロシアの兵士たちが可哀相で仕方がなくなる。あんな髭むくじゃらの、銃声を聞くと喜んじゃうような、切っても突いても死にそうにない、中世の騎士よろしく大剣を吊り下げた、怪物のような連中と戦うなんて、私だったら絶対にイヤだ。チェチェンの戦士たちはロシア兵に比べると可哀相ではない。彼らは自分たちの戦いに意味を見出しているのだから、悔いる必要もない。
 ワシーリーが銃を持ってチェチェンの山の中の村へ行かなければならない状況を思い描くと、涙が出そうになる。ワシーリーは生活力がないけれど、一途に愛情深くて、誰に対しても底抜けに親切で、力仕事よりも芸術や、夢のような大それたことを考えているのが好きな男だ。
  だから、ロシアの兵士の母親たちが軍隊から自分たちの息子たちを取り戻したいという気持ちも、よく分かる。チェチェンで戦争する必要なんて、彼らにはないのだ。ましてや、チェチェンなどという自分たちに本来縁もゆかりもない辺境の山国のために、息子が手足を失ったり、命を捨てるなど、無意味以外のなにものでもない。
 しかし、モスクワにいる限り、そこが戦争中の国だと思い出すのは困難だ。だから、兵士の母親たち以外は、戦争を終わらせる必然性を特に感じないのだろう。彼らが感じる必然性は、日常生活を脅かすテロを食い止めることだけだ。だから、マスハドフは無力になり、バサエフの作戦は常に目的を達成する。
 居候しているクワルチーラから出かけるとき、ゴミを捨ててと頼まれたので、ゴミ捨て場に寄った。プラトークを被った老婆が、ゴミを漁っていた。私が立ち去ると、私が置いたばかりのゴミを検めていた。
 アホートヌィ・リャートの地下鉄駅を出て、地上へ出る通路の途中で、物乞いが手を差し出していた。それもまた、老婆だった。この国では障害者と老人だけが物乞いをしている。数年前はこの国は全体に貧しく、物乞いの総数がもっと多かった。その頃は若い物乞いもいた。今は当時に比べると豊かになったが、惨めな人たちはより程度を増して惨めになった。