異変のそら(その2)

横浜ではこの暑い真昼間に、大きな雹が降ったそうだ。
明らかに異常気象だという気がする。

※※は近所のサティでレディボーデンを買ってきたが、
冷蔵庫の製氷室に入りきれなかったので、一気に食べてしまった。
これでまたおなかを壊すに違いない。

二つの視点に整理できると思う。
一つは自分のためにという視点。
日本の憲法を守りたい、あるいは変えたいという視点は、
これは自分に関わる問題だからだ。
もう一つは、自分の立場と関係なく、「神の視座」に立って、
世の中の重要な問題をこそ問題としようという視点。
そして、実はそういう客観的視点からは、イラク憲法もどちらも、
優先課題には挙がってこない。
17000人の命が奪われたイラク戦争は当然、日本の憲法の問題よりも
緊急性が高いのだが、それでも、客観的、すべてを相対化する視点では、
「わずか17000人」だ。
何と比べて「わずか」なのかというと、アフリカ諸国の戦争や
チェチェン戦争と比べたときだ。

では、なぜ私たちはイラクイラクと騒いでいるのか?
実は私たちが騒いでいるのはイラクだけではない。
イラクがこれほどの騒ぎになる一昨年まで、市民団体の国際問題の
テーマといったら、パレスチナ一色だった。
そのパレスチナはそんなに悲劇的な状況なのか?
否。
2000年に衝突が始まってからこれまでに3000人しか死亡していない。
イラクの六分の一、チェチェンの60分の一だ。
市民は貧しいかというと、中東アラブ地域で生活水準も教育寸準も
一番高い。
イラクパレスチナをネタに、「人権」を語る人たちというのは、
本当にこれを「ネタ」にしてる人たちであって、その本当の狙いは
「人権」を掲げることの政治的効果の方にある。
こういうのはまさに、「人権屋」と呼ぶべきであって、
騙されてはいけない。
イラクパレスチナが国際社会の重要なテーマとなっているのは、
それが重大な人権問題の地だからではなく、米国の利権に関わる地
だからだ。