イスラムと日本人

大塚モスクが中心となって進めているムスリム学校の建設には
賛成する人がいてもいいと思うが、自分が参加・協力しようとは思わない。
私はイスラムを信じているのであって、ムスリムを信じているのではない。
イスラムを学び、その素晴らしさを理解してゆくに連れ、
現代のムスリムの堕落振りがいっそうよく分かってゆくようになった。
堕落ムスリムに、まだ堕落していない私たちの子弟をスポイルさせることは
罪深いことだ。

ムスリム社会」を自称する社会と、自称しない社会を比べたとき、
どちらがよりイスラミックであるかというと、多くの非ムスリム社会の方が
イスラムの教えにより近いと感じることが多い。
仮に自分に子どもがいて、どこかで教えることになるなら、
それは非イスラムの欧米・日本社会でそうしたいと思う。
その方がよりイスラミックな教育が可能だからだ。

そういう意味でも私は愛国者だ。
なぜイラクサラヤ・ムジャヒディンが、チェチェンの聖戦士たちが、
日本人をこれほど尊敬してくれるのか?
彼らが敬意を払ってくれているのは、あるものは技術力であったり、
経済力であったりするが、実はそのほとんどは本当の敬意というよりも
打算から来るジェスチュアだ。
しかし、ときとして、心から私たちに関心を持ち、
尊敬の念を持って接してくれる人たちがいる。
彼らが評価してくれるのは私たちの精神世界の部分だ。
たとえばチェチェン・スーフィのハジムリッド精神世界は、
日本の武士道の美学に驚くほど近いものがある。
ほとんどのイスラム世界よりも、サムライの国・日本にこそ、
イスラムの教えに近いものが教わらずとも備わっている。

こういうとこいつは右翼だと勘違いされるか知らないが、
私がそれを強烈に感じたのは、エセ右翼あたりから「サヨク」と
叩かれていたイラク空爆中の「人間の盾」の行動からだ。
欧米のヒューマン・シールズは開戦が近付くと
一斉に帰国していなくなってしまった。
日本人の「盾」たちも、国連査察団の出国のタイミングで、
一旦は大半が脱出した。
しかし、実際に戦争が始まると、なぜか日本人だけが一人、また一人と、
戦場に戻ってきた。
そして、戦闘が激しさを増すに連れて、その数は増し、
最終的にバグダッドの「人間の盾」の主体は
日本人になってしまったのだった。

チェチェンで聖戦士ハワジとなったのも、日本人の南洋志くんだったなあ。