否定の共振(その3)

しかし。
ただ二ヶ所、特異点がある。
他でもないヒロシマナガサキだ。
ブッシュが「ヒロシマの原爆投下は正しかった」といい、
ハーグが「核兵器の使用は必ずしも国際法違反とはいえない」
と認定しても、コイズミは決して、「その通りだ」とはいえないだろう。
仮に本当はそういって、米国の歓心を買いたくて仕方がないとしても、
いえば彼は日本国民の怒号を浴び、失脚してしまう。
世界中が核兵器の力に屈し、核保有国の力の支配を受け入れる時代が
来ても、非核国がことごとく、渋々とでも「ヒロシマは正しかった」
と認めざるを得ない日が来ても、
世界でヒロシマナガサキだけはそんな世界を肯定しないだろう。
原爆に恐怖する人たちは膝を地に着けても、原爆に灼かれた人たちと、
原子雲の下に生き延びた人たちの悲しみは、
そんな恐怖をなぎ払ってしまうだろう。
人を動かすエネルギーの中で、悲しみほど強く、
いつまでも消えないものはないし、
ヒロシマナガサキの悲しみがまさにそういう性質のものであると
いうことを私はもう十分知っている。
核兵器が支配する世界に対して、ヒロシマナガサキは紛れもなく、
これを否定する別の世界の中心だ。

核が支配する世界には、同じような「否定の中心」がいくつかある。
核を持つ国から今まさに蹂躙されているチェチェンアフガニスタン
チベットカシミールウイグル自治区といった地域だ。
彼らもまた、悲しみ続ける限り隷属を肯定しないだろう。
中心同士は呼び合い、共振する。
だから彼らは、私が彼らの元を訪れることを、自然なことと受け止めた。