ハラブジャ(その2)

 以前、戦争前に朝日新聞クルディスタンから伝えたリポートでは、スレイマニヤからイランのウルミエに国際定期バスがあり、飛行禁止区域のため飛行場を持てないクルディスタンの住民がウルミエの国際空港を利用している、ということだったので、この点も問うてみた。「確かに、以前はイレギュラーな形で国境の行き来があったが、今は少ない」というのが答えだった。
 今日はハラブジャに行った。88年の3月16日、イラン・イラク戦争の末期、サダムはこの村をサリンマスタードガス、VXガスなどの化学兵器で攻撃した。村人5千人が死亡したという。史上三番目に実戦で使われた大量破壊兵器なのだそうだ。ちなみに一番目と二番目はヒロシマナガサキだ。
 村のPUK本部では大変な警戒だった。英語を喋るスタッフがおらず、ペルシア語を喋る私が代表で尋問を受けた。私がムスリムであり、アフガニスタンでペルシア語を覚えたといったところ、係官の目つきが変わった。「アフガニスタンで何をしていた?」「え?仕事ですよ。写真を撮ったり・・・」「他の三人もムスリムか?」「いいえ。彼らは仏教徒です」
 係官は表情を緩めてからいった。
「日本にはイスラムのテロリストはいないのか?」
 私はようやく合点がいった。アンサール・イスラムはたぶん、まだいるのだ。私はそのメンバーか、協力者ではないかと疑われている。
 疑いが晴れたあとは、彼らは親切だった。わざわざトラックを出してくれて、村を案内してくれた。ハラブジャの化学兵器攻撃跡は、祈念館か博物館でもできているのではないかと思ったが、なんにもなかった。事件を思い起こさせるものは広大な墓地ぐらいなもので、絵にならない。詳しく説明は聞いたから、記事にはなるかもしれない。
 PUKの説明によると、使われた化学兵器はドイツ製だったそうだ。どんな経緯でドイツ製化学兵器イラクで使われたのかは分からなかった。事件の10日前、イランの革命防衛隊が国境を越えてハラブジャに侵入。クルドペシュメルガがこれを支援に集まった。住民は革命防衛隊とは距離を置いていたがペシュメルガに協力したという。
 サダムは村人の態度を利敵行為と受け取ったのだろう。航空機から数種の化学兵器爆弾を村に投下した。
 イラン革命防衛隊は事件から一ヶ月余り経って撤退している。彼らとペシュメルガが村の惨劇を記録し、世界に蛮行が知れ渡ることになった。