あの子たち(その2)

私自身のイスラムの信仰に照らすと、異教徒の侵略を受けたとき、
イスラムの信仰に従って抵抗することは正当であるどころか、モスレムの義務だ。
そういう意味で、占拠犯の行動は目的において正しかった。
チェチェンの殺戮は、今すぐに止める必要があった。
しかし、現地での殺戮に直接の責任を負わない人質を一人でも殺害した時点で、
占拠犯の正当性は微塵もなくなる。
「決して侵略的であってはならない」とコーランにあるからだ。
劇場の観客にとっては、チェチェンでなにがおこなわれているにしても、
恐らくほとんどにとって身に覚えはない。
彼らにとっては、いきなり劇場を乗っ取った集団は侵略者以外の何ものでもない。
ニュースでは、占拠犯は決起後間もなく若い女性一人を殺し、
それから、26日になって男女二人を処刑したという。
これが本当なら、それはもはやジハードではない。
犯罪だ。
確かに、私の個人的な考えではジハードと呼べないが、
イスラムに関して私と異なった意見を持つ彼らは、
彼らにとってのジハードを実行した、ということだったのだろう。
真のイスラムがいずれであるか、アッラーの意思を知りうる人間はない。
彼らは最後まで、自分たちは神に祝福され、
斃れたあとには楽園が待っていると、心から信じて逝ったのだろう。
だから、殺害された大勢の人質に同情しても、
私は占拠犯たちの死に同情する必要性を全く感じない。
人質の理不尽で無念の死とは対照的に、彼らは幸せに死んでいった。

モフサル・バラエフは24歳だったそうだ。
それを聞いたとき、同じ年頃のチェチェンの友人たちの顔が一つ一つ浮かんだ。
彼もまた、「あの子たち」の中の一人だったのだ。