勉強:攻撃衝動とタナトスは同一ではない?

涅槃を希求するタナトスが、攻撃性として発現するプロセスがよく分からない。
人間には、自己を破壊しようとする傾向があり、これを防ぐ方法は、
性本能と結びつくか、自己を破壊しないために、
これを外部に向けて他を破壊することだ、とする考え方がある。
しかし、自己の外部に攻撃性を発揮するにも、
生のエネルギー(エロス)が不可欠なような気がして仕方がない。

生への欲求が即ち性衝動だというのは理解できる。
しかし、休息、静寂、涅槃を求める欲求と、
他者を攻撃し、支配しようとする欲求には関わりが薄いような気がする。
休息、静寂、涅槃を求める欲求は、
他者と繋がろうとするエロスの衝動とむしろ対立する。
他者を攻撃し、支配しようとする欲求は、エロスとまさに重なってくる。
例えば、食べるという行為は、食物を破壊する側面を持つが、
同時に食物を自己と結合しようとする。
性交もまた、相手と結合し、合一化する側面と、
相手を支配したり、支配されたりする側面を持っている。
つまり、攻撃性とエロスは非常に近く、融合して働く性質がある。
これに対して、タナトスとしてここまでで示した涅槃の欲求は、
エロスが限りなく減少した状態で、拮抗して現れるものだ。

タナトスを「涅槃への欲求」としたのは心理学者岸田秀フロイト解釈だそうだ。
ここでは便宜的に、“涅槃タナトス”と、“攻撃タナトス”の
二種類のタナトスを分けて考える必要がありそうだ。

フロイトは人間の良心さえも、“攻撃タナトス”が自分の内面に
向かったものだと説明している。
人間の自我のさらに内側にある超自我
私たちの罪悪感を司っているというのだが、
これはタナトスが自分自身を「攻撃」した結果だというのだ。
カントは「良心とは人の心の中の法廷である」といったそうだが、
ここではタナトスから生じる超自我が原告、自我が被告、
そして裁判官が理性だという説明だ。