理解ある人たち

イスラムは暴力主義ではない。
 イスラムは女性を抑圧する宗教ではない。
 イスラムは平和を志向している。
 イスラムは民主的で寛容な宗教だ」

イスラムに「理解のある」非モスレムはときどきそういう。
それは、イスラムを非難する非モスレムに向けられることもあるが、
彼らが思うところの「非寛容」であったり、「暴力的」であったり、
「抑圧的」であったりする、いわゆる「原理主義者」や「過激派」を説得したり、
なだめたりするときもそういう。
そんなとき、モスレムはいつも思う。

「だってあなた方は、それを信じてはいないではないか。
 なぜ自分が信じてもいないことを、他人に言うのだろう」

タリバンによるバーミヤン大仏破壊が世界の非難を浴びたとき、
ある「理解ある」非モスレムの友人が言った。

「あなたはイスラムが寛容な思想であることを示すためにも、
 同じモスレム同士身内を庇っているという非難を浴びないためにも、
 この行為に対して、厳然とタリバンを非難すべきだ」

私はタリバンがモスレム同士の殺し合いを続けていることに非難を続けてきたが、
石を壊したことを非難する理由がない。
なぜなら、その石はイスラム法上も、国際法上も、彼らの専有物で、
彼らに処理方法を決める権限があるからだ。
イスラムは人間の尊厳を認める宗教であるというのが私の解釈だが、
石に権利など認めはしない。
その石に学術的に価値がある。
芸術的に価値がある。
仏教徒にとって宗教的価値がある。
それは知っている。
しかし、その石は仏教徒の所有権の及ばないものであるし、
学術的、芸術的価値よりも、
有権者の宗教的価値観が優先されることは致し方ない。
タリバンも私もモスレムだが、彼らの宗教的価値観と私のそれは全く違う。
私は石を壊すことが善行だとは思わないが、彼らはそう思う。
他人が私の宗教的主張に口を挟めないのと同様に、
私もタリバンの宗教的主張に口を挟むことはできない。
残念だろうがどうだろうが、他人のものなのだ。

タリバンが石を破壊したときに非難した
「理解ある」非モスレムの市民たちの多くは、
タリバンがハザラ人を殺戮したときや、
国連がアフガン人を餓死させたとき同様、
米国がアフガン人を殺戮している現在、非難の声を挙げていない。
彼らは自分たちの「寛容さ」や「平和」や「民主的」なさまの意味するところを、
自らの行為で示したのだ。