美しい人

美しさを感じる基準が人によって異なっているのは
当たり前のことだろう。
ある友人はスラブ民族の女性を
世界で一番美しいと考えているが、
私にはよく分からない。

形だけで美しさを判断する習慣が
私には失われてしまった。
付加価値的に対象が背負っている背景の中で
それは美しくも醜くもなる。
油彩画だって本当はそうだ。
モナリザの絵にはあの薄暗い田園の背景が必要なのだ。

私はつばささんと恋人のカップルを全く美しいと思った。
それは彼女が背負っている背景的事情、
すなわち同性愛者として、同時にクリスチャンとして
矛盾に悩み、傷つきながら、
確信する愛を守り抜こうとする
苦悩する人間の美しさだ。
つばささんの痩せた頬に、
なにか未来への覚悟のようなものが
張り付いているかのように私には見えた。

チェチェン戦士の友人ムハンマドも美しかった。
彼は常に死を求めていた。
殉教者としての死を。
彼が私の取材を助けるために財産を譲ろうとしたのは、
もはや現世のさまざまなことに
拘っていないからであったろう。
彼の獅子に似た丸顔の中に落ち窪んだ目と、
眉間の皺と、隆々とした肩の筋肉には
信仰が人に与える力が見えるような気がした。
彼が命を捨てるのなら、
その瞬間をこの目で見てやりたいと思った。
それは恐ろしく美しいという予感がした。

6年前に好きになった女性は、重い摂食障害で苦しんでいた。
私と出会うまでの2年間、彼女は完全な引き篭もり生活で、
病院に通うために家を出ることすらままならなかった。
彼女が私に悩みを告白する時の
ほとんど虚ろといっていいような目と、
発作に苦しみ、泣き叫ぶ姿に、私は胸を高鳴らせた。
戦慄をおぼえるほど、それは美しかったのだ。