12日の続き

12日に「イスラムと人間の自由について」というのを書いて、その中でカリフ制復活論について触れたところ、ハサン中田先生にお便りをいただいて、いろいろ基礎の基礎をお教えいただきました。まったく自分の不勉強が情けないばかりです。「カリフ制の復活はムスリムの宗教的義務」だというご説明でした。しかし、そのまま一週間、ぼくは休むに似た行為を続けています。
なにもないところに誰かが突然、「おれさまはカリフだ」と、宣言したとしても、それは僭称者です。また、「カリフ制復活を目指す」とするグループが出現して、彼らが選び出したとしても、それはそのグループ外のムスリムにとってあずかり知らぬことになってしまいます。
カリフが僭称者にならないためには、全世界のムスリムによる統一ウンマイスラム共同体)が必要になります。カリフは世界に一人きりの、全ムスリムの指導者だからです。というよりも、統一ウンマを建設するためにカリフ制が必要です。この問題はたまごが先か、鶏が先か、みたいなことになります。実際のところ、宗教的指導者がウンマ統一運動を起こして、それが達成されたときに、ウンマのシューラからカリフに選ばれる、という手続きがあり得るだけだろうと思います。それでも、そんな人物が「ムハンマドの後継者」を名乗るのはやはり分を超えていると思います。彼はムハンマドの同意も、ムハンマドの後継者の同意も得ていないから。歴史的な語の使われ方としては同じでも、やはり「イマーム」あたりを名乗るのが無難ではないかと思います。
統一ウンマムハンマドの時代に建設され、その頃は存在しましたが、正統四カリフの時代の直後から千々に分裂して消滅しました。そしてそれきり、二度とこの世に再現されませんでした。それを再び再生するのはとても難しい仕事のように思えます。が、ムスリムの義務であることは間違いないでしょうから、努力するしかないでしょう。
そして、ムスリムがカリフを立てられるようになるのは、ウンマが統一されてからのことですから、それまでの長い闘争の期間、小ウンマを運営する方法が必要です。それをいい加減にしてきたのが、ムスリムの歴史的な過ちであったと思います。つまり、サウジアラビアみたいなデタラメなウンマを作ってはならない。あるいは、サダムのような独裁者に信念を明け渡して、責任を丸投げしてもならない。つまりこの場面で、ムスリムにとって、自由から逃走しないことが大事になってくるのだと思います。