イスラムと人間の自由について

パレスチナハマスのモスクで、「イスラムは自由の教えだ」とぼくはいったけど、ポカンとした反応をされた。チェチェンの戦士たちは一日に一万回ぐらい「自由」という言葉を使ってたけど、イスラムの教えそのものが人間の自由を謳っているとは考えていないみたいだ。
エーリッヒ・フロムいうところの「自由からの逃走」を厳しく禁じ、神以外の何者にも隷属してはならぬ、というのが、イスラムの教えの柱だと、ぼくは信じているんだけどなあ。神は人間に自由を強制するのだ。髪の毛一本、自分でコントロールできないし、作り出せない人間は、そのままでは自由な存在たり得ない。神の掟の中に守られて初めて、真の自由を得られるのだ。それは、自由落下中の人は自分の身体をコントロールできないが、重力の下で大地に足を着けることで自分の身体を自由に動かせることに似ている。
しかし、自分を地球に拘束しておく重力を、「神の掟」だけにしておくことは難しい。神の正体は人類には永遠に分からぬ謎だし、預言者がいない今、神は私たちを誉めても叱ってもくれない。遠藤周作ではないが、沈黙し続けている。私たちはその沈黙を、少なくとも体感上不在と等しく感じ、無限の孤独に苛まれる。それから逃れるとても簡単な方法がある。他の、自分を律する力に自分を委ねてしまうことだ。
実際、イスラム世界の人たちは、こぞって「自由から逃走」しているようにぼくには見える。自分で自分の運命を切り開くのではなしに、「正義の独裁者」たるアイドル(つまり偶像)が自分たちを導いて、幸せにしてくれることばかりを待っている。
イスラム世界には、カリフ制復活論というものがある。日本のイスラム教徒の間にもある。しかし、それこそ、一番肝心な信仰を偶像に委ねる制度に他ならない。新たなカリフは神から選ばれた存在でも、神託を受けた人間に選ばれた存在でもなく、人間に作られる存在(つまり偶像)にしかなれないからだ。
mixiのコミュの中で、性的少数派の人たちが、自分たちが心ない誰かからいわれた「許せない発言」について語り合うトピックがあって、多数派異性愛者側の愚かしい無理解な行動の数々を聞いているうちに、なぜかイスラムについて考えが飛躍してました。