ロシアとトルコ(その2)

言葉を奪うということは、銃も大砲も必要としないが、事によっては
それにも勝る惨たらしい迫害であろう。
人間の記憶はほとんどを言葉に頼っている。言葉を奪われると、私たちは
思い出をも同時に奪われることになる。
例えば私が日本語を失って、英語だけを与えられたとすると、それでは
私のこれまでの記憶を再現することはかなわなくなってしまう。
言論の自由」という言葉は近代民主主義の常識的な用語だが、
実はそれよりもっとベーシックなものとして、「言語の自由」というものがあるべきだ。
残念ながら、トルコ民族のほぼ全員の常識に、それが欠如している。
トルコがケマリズムというみょうちきりんででんぐり返った思想の絶対化によって、
国民に他のものが見えないようにさせ、馬車馬みたいにバカな状態
に縛りつけ留めようと躍起になっているのに対して、ロシアにはもはや国民
を統制できるような思想がない。
だから、物理的な暴力で問答無用に少数派を押さえつけようとしている。
その結果、見せしめの意味もあって、チェチェン人は全民族人口の4分の一を
すでに殺害された。

先日のネヴローズの日、メルシンでトルコの国旗が焼かれたことに抗議
して、現在、民家、銀行、商店、公共施設の別を問わず、トルコ全土
いたるところに、トルコ国旗が掲げられている。
カフカスヤ・フォルムの少数民族出身者の青年は語った。
「トルコの愚かなファシストが、台頭しつつある。
メルシンでクルド人が国旗を焼いたと騒いでいるが、誰が彼らに国旗を
渡したか、誰も問わない。この事件の裏には別の大きな動きがある。
トルコにはファシズム的極右政党があるが、今回のムーブメントは
彼らに煽られたものではなく、もっと中道的な階層から出現している。
それだけにより危険だ」

トルコでトルコ人が排外的になればなるほど、クルド人にとっても、
カフカス少数民族にとっても、チェチェンからの難民たちにとっても、
住みづらい国になる。