「権利」という語

 日本語で「正しさ」、「正義」、「権利」、そして「右」と、まったく独立した別の概念になってしまうものが、英語(Right)、ペルシア語(Rast)、アラビア語(Al Haqq ※「右」の意はない。一方、「真理」の意がある)、ロシア語(Pravo)になってしまうのはなぜだろう?
 別の単語になっているからこそ、使い分けによってより細やかな表現ができるという側面もあるけれど、「イカ」と「スルメ」を別の単語にしているケースと違って、日本語の場合は「正しさ」「正義」と、「権利」の間に強い関連性があるという認識がないような気がする。
 そもそも、日本語の「権利」という語は歴史的にはいつ頃から使われているのだろう?印欧族言語の「Right」「Rast」やアラビア語の「Al haqq」に比べて、ほんの最近発明された語のように聞こえるが…
 去年、イラクで市民にインタヴューをして回ったときに、こちらの「イラクの未来になにを望むか?」という質問に対して、「正義を」という答えが多かったのに驚いた。「サダム支配のイラクにはどこにも正義というものがなかった。この国に正義を回復されることを望む」と。
 このとき、彼らは「Al haqq」という語を使ったのだが、アラブ人の友人が「Justice」と翻訳したのだった。英語の「Justice」と日本語の「正義」にもやはり、ニュアンスの違いがある。このときの「Al haqq」は「(国民の)権利」と翻訳した方がよかったのかもしれない。
 イスラムクルアーンは、世界宗教の中で唯一、「人間の権利(Al haqq)」について明らかにしている。同時に「神のAl haqq」についてもだ。しかし、後者を「神の権利」と翻訳するのはなじまないと思う。「真実」あるいは「真理」と翻訳した方がいい。それによって、日本語では「真理」と「権利」と神と人の関係性が分かりやすくなるはずだ。すなわち、真理が神に属するように、権利は人に属する。