辺見庸が「鵺(ぬえ)のようなファシズム」といったが、辺見庸だって、
鵺の正体が分かってはいなかった。
それどころか、彼自身、鵺の身体の一部に取り込まれていることに
気付いていなかった。
辺見庸NHKと一緒にアフガニスタンに行って、クラスター爆弾
かけらを拾い上げて慄いて見せたとき、すべては遅すぎた。
もう、終わっていたのだ。
アフガニスタンは、米軍がやってくるよりもずっと前に、
最悪の事態を迎えていた。
その頃、私や久保田弘信といった無能で無力な人間が、
か細い声を挙げていたけど、誰も聞いてくれなかった。
それどころか、寒さと飢えで死に続ける幾万の子どもたちの前で、
石ころの大仏が壊れたといって人非人どもが大騒ぎしていた。
アフガニスタンから臨む世界に仏性は見えず、
修羅道だけが果てしなく広がっていた。
あのとき、子どもたちを見殺しにしたものの正体こそ、鵺だったのだ。

同じようなことは、10年前にもあった。
イラク経済制裁が行われ、150万人の子どもが死んだとき、
やはり、誰も声を挙げなかった。
私は学生だったけど、イラク北部に密入国して、現地の惨状を見た。
学生だった私はあまりに無力で、それをどうしていいか分からなかった。
そして10年後、あのとき一言も抗議しなかった「文化的」で「進歩的」な
「市民」たちが、米国のイラク侵略に抗議している。
それはそれでいい。
しかし、まったく同時進行で並行して続いているチェチェンや、
スーダンやナイジェリアやコンゴやシェラレオネやリベリア
大量殺人に対して、やはりこの人たちは決して声を挙げない。
イラクの10倍、100倍、200倍の命が失われているというのにだ。
10年前とそっくり同じだ。
実は、彼らが声を挙げているのはイラクの子どもたちの命に対して
ではない。
地球の反対側のジョージ・ブッシュというコメディアンの失言に対して
ブーイングしているのだ。
ブッシュの滑稽な失言さえ楽しめれば、彼らにとってイラク人の命など
どうでも構わない。
コメディを楽しむのは「文化人」のたしなみだ。
そして、チェチェンにもアフリカにもコメディはない。
99年のアフガニスタンにも、93年のイラクにも、
コメディアンはいなかった。

鵺の正体は米国でも共和党でもネオコンでも自民党でも、
もちろん小泉でもない。
私たち自身だ。
人の命に対する、善良で普通の多数派市民の途方もない無感覚だ。