イラク邦人記者襲撃

遺体が2体、病院に運ばれているようだ。

橋田さんには去年3月、空爆下のバグダッドで初めて逢った。
安全な安全なパレスチナホテルへ、ジャーナリストたちが
大挙して逃げ込み、プレスツアーでやらせ取材をこなししている間、
橋田さんは「危険なところにいないといい絵が撮れん」といって、
官公庁街の真ん中にあって、もっとも危険なマンスールホテルに
一人で滞在していた。
ホテルそのものが閉鎖になって、川向こうに引き揚げてきたところで
私と出会ったのだった。

私の方は、衛星電話を持っていないために、コミュニケーションセンター
(中央電話局)が空爆で破壊されると同時に、テレビ東京毎日放送での
電話リポートができなくなり、インターネットで情報を発信することも
できず、戦下のバクダッドで失業してしまったところだった。
橋田さんはそんな私に、
「TBSでリポートするのに人手が足りないんで、
ぼくんとこでアルバイトしないか」
と、声を掛けてくださったのだった。

私たちはほんの一週間ほど一緒に仕事し、4月2日には一緒に
イラクバース党から国外退去を食らった。

次に橋田さんとお逢いしたのは一年後の3月2日、同じバグダッドでだった。
サフィールホテルにインターネットを使いに来たところに、
橋田さんが甥の小川功太郎さんを伴って現れたのだった。
ちょうどこの日、ジャーナリストを気取った邦人テレビタレントが
バグダッドに入る手前のファルージャで追い剥ぎに遭った。
橋田さんはこの邦人のお粗末な事件の顛末を聞かせてくれた。
この邦人と仕事上仕方なく付き合ってはいるものの、実は迷惑らしく、
いやで仕方がないといった風情だった。

パレスチナホテルに引き篭もっていたジャーナリストたちの多くは
「人間の盾」を異常に敵視していた。
自分たちがプレスツアーでしか取材せず、イラク戦争のことなど
分かってもいないということをバラされるのが恐かったのだろう。
その中で、橋田さんだけが、「盾」となった若者たちに気さくに話しかけ、
時には行動を共にしていた。
プレスツアーに頼ろうとしなかった橋田さんにはたぶん、
余裕があったのだ。

「ぼくは戦争すべてに反対じゃない。
戦わなきゃならない場面もあると思う。
しかし、この戦争はおかしい。
イラクと闘う必要はない」
と、しきりに語っていた。