『金色の雲は宿った』

アムネスティ・インターナショナル日本主催の映画上映会
『金色の雲は宿った』に行ってきた。(参照↓)
http://homepage3.nifty.com/aigroup1/cupdate/2003/
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あんまり期待していなかったら、映画は非常に面白かった。
東長崎機関からは加藤健二郎総裁とらりったまりりん参謀が参加。

ところで、「チェチェンの難民が困っている。可哀相だ」
というスタンスで、バクーのチェチェン人学校を支援するべきと
主張するのは実に愚鈍でおめでたいスタンスだ。

カフカスには他にも難民がいる。
ナゴルノ・カラバフ紛争によるアゼルバイジャン難民、アルメニア難民、
アブハジア紛争によるグルジア難民…
どう比較しても、チェチェン難民よりも数も多く、より貧しい。
彼らは「可哀相」ではないのか?
チェチェン難民だけを支援する理由がなにかあるのか?

違いがあるとすれば、チェチェンでは今もすさまじい
殺戮と流血が続いているということだ。
しかし、今まさに殺戮の危機と恐怖の中にいるのは、難民たちではない。
難民にもなれず、チェチェンに留まっている人たちだ。
彼らは自分が殺されないために、ほぼ全市民が一丸となって、
武力闘争をしている。

残念なことに、愚鈍な人たちというのは、
こういう人たちが「可哀相」とは見えない。
アムネスティで初めて講演したときに、
私が用意したスライドに映っていたのが
武装したイスラム戦士ばかりだったというので、非難を受けた。
私が市民の苦境を見ていないというのだった。
しかし、実際には私がスライドで見せたのは全員、ただの市民だった。

想像力の貧しい人たちが考える可哀相な市民とは
市民の中の最も運がよく、恵まれた人たちに過ぎないのだった。
まず流血を止めるために努力することなしに、
血を流す可能性のない難民を支援をするというのは、
本当は実におめでたい行為だ。
殺戮のさなかにある人たちはデモも投票もできない。
難民を支援する意味があるとすれば、それは彼らの政治性を利用して、
殺戮を止められる可能性があるからだ。
逆にいうと、殺戮を止められないならば、
いくら難民に一時対処的な支援をしたところで、焼け石に水となる。