侵略するのが怖い

アッラーは私たちに、「決して侵略的であってはならない」と教えている。
私はチェチェンを取材しているということで、
あるいは自分自身がモスレムであり、諸国の活動家と交流があると
いうことで、ロシア政府や日本政府、グルジア政府などから
弾圧・迫害されたり監視されたりする対象となっているが、
そんなことはなんとも思わない。
すべてのモスレムは侵略に抵抗するジハードの義務があるし、
逆に迫害を受ける人たちの祈りの声は、
例え彼らがモスレムでないとしても、
アッラーに聞き届けられるのだそうだ。
私は侵略されたり、弾圧・迫害されたりすることよりも、
自分が侵略者になってしまうことの方が怖い。

ウェブサイトに“Sexuality”のコーナーを作っているのは、
(参照→ http://16.tok2.com/sherko/sex.htm
取材のためなどではなく、私自身のためだ。
私はシモーヌ・ド・ボーボワールいうところの「第一の性」に属しており、
「第二」「第三」「第四」…の性に対して社会的に強い立場にある。
「性暴力」というものが実は日常の中に普通に転がっていて、
誰でも加害者にも被害者にもなる可能性があるということについては、
“Sexuality”にリンクした日比野真さんのウェブサイトを
(参照→ http://barairo.net/)参考にして欲しい。
性的少数派の人たちに関して、私は何よりも自分が彼らにとって
侵略者や弾圧者や迫害者にならないために、
その権利の回復を訴えてゆく必要があると感じている。

性的少数派でなく、ストレートの男女の問題でも、
セクハラなどという性暴力の問題は日常の中に転がっている。
ここでやはり侵略者にならないよう考え続けた結果として、
「モテないくん」になったり、「ギャルなし人生」になったり、
「フラれキャラ」になったりするのであれば、
それは甘んじて受け入れるしかないのかなあ、などと思う。

いってみれば、米国市民もロシア市民もイスラエル市民も日本市民も、
自分たちが侵略する側だとは思っていない。
被害者だと思っている。
セクハラ男やDV男がたいがいの場合、自分の行動の意味を
まったくといっていいほど自覚しておらず、
自分の行動が相手への人間らしい感情の表れであるとか、愛情であるとか、
キモイ解釈をしているのに似ている。
とすると、私たちが常に注意深くなければならないのは、
いつの間にか意識せずに侵略したり、侵略に加担したりする危うさの方だ。