本売ってないし…(その1)
Stage Vol.12で切通理作さんとギャルギャル小林エリカさんが
「戦争」をテーマに対談しているそうだ。
(参照→http://www.gont.net/risaku/index_hitokoto.shtml)
読みたい!
モーレツに読みたい!
しかし、私は日本のチベット島原市の実家に滞在しているのだ。
本屋に売っていない!
なすすべもなく私は、ネコと戯れているしかないのだ。
ウェブサイトに切通さんが書いていることはよく分かる。
「(平和運動をしている人たちが)ピースボートみたいな人
ばっかりだったらどうしようと思った」
という会場参加者の気持ちが、切通さんはよく分かるという。
「彼らの顔が、たとえば新興宗教の信者と
領域的に隣接しているように思えた。」(切通氏の「今日の一言より」)
はっきりいうと、ジャミーラ団の参加者や、ジャミーラ団を日本から
サポートしていた人たちの多くも、典型的な「そういう顔」だった。
彼らがいわゆる公人ではなく、社会的責任を問われるいわれのない
一般市民である以上、自称ジャーナリストの何人かがやってるように
私は報道の場でそれを非難したりするつもりはないが、
個人が戦争という問題とどう向き合えるのか、
向き合うべきなのかという問題そのものは
サブカルなど文明批評の場で特に重要なテーマだと思う。
一方報道の場で、私がこういう「平和活動家」の人たちに対して
いうべきだと思っているのは、
例えば米国がイラクにひどいことをしたと怒っている
自称「平和活動家」のみなさんは、
彼ら自身はイラク市民の迫害に関与せず、責任がなかったのか?
湾岸戦争後、米国でも多国籍軍でもなく、
私たちが所属する国連が国際法に基づいて実施した経済制裁で、
子どもを中心に百数十万のイラクの市民が犠牲になったことは、
今回米軍が行ったことに比べて人道的だとでもいえるのか?
自称「平和活動家」はなぜ、今になって声を挙げ始めたのか?
今まで一言も声を挙げなかった人たちにとって、
ひょっとすると、今挙げている声は、ただの集団ヒステリーではないのか?
そして今、イラクではない世界のさまざまな場所で、
私たちはどこかの誰かの迫害や殺戮に関与し続けていながら、
冷静さを欠き、ヒステリーに駆られているせいで、
目の前にありながら見えなくなっているのではないのか?
…ということぐらいだ。(その2へ)