否定の共振・追記

終戦の日敗戦の日、あるいは光復節の今日にちなんで、
8月7日の日記に追記。

ナガサキヒロシマは、核保有国にとってはその残虐性と非人道性こそが
高い利用価値を持つとすでに書いた。

だからといって、ナガサキを伝え続けることには意味がないのかというと、
そんなことはない。
ただ、「ナガサキは残虐だ」と58年前の事実を伝えるだけでは
すでに不十分という時代に私たちは生きている。
58年前だけでなく、ナガサキの果ての現在がどうであるのかと
いうことを伝えて初めて、これまでナガサキを伝えてきたことが
無駄にならずに現在に活かせることになる。
そのためには、核兵器が現在、実戦的戦略兵器としてではなく、
プレゼンスをブラフに使った政治的な武器として、
核を持たない少数派の弾圧に利用されている実態を伝えなければならない。

と、そういうことを朝日新聞の取材に対してお答えしたのだが、
反映されず、「私が長崎を語ることはないが云々」という
意味不明のコメントに化けてしまった。

ところで、「婦人の友」に掲載された下斗米教授の
チェチェン戦争に関する論文はひどかった。
ロシア寄りならロシア寄りで、政治的なスタンスはどうでもよいが、
事実関係の間違いが多すぎる。
法政大はあのような不勉強の嘘つき学士を雇っていたら
格が下がっちゃうよ。

絶対評価で自分を省みたとき、私はいつもコンプレックスで
自分が嫌になってしまうのだが、他人と比べて相対評価してみたとき、
この下斗米氏みたいに、これほどおバカなことを世間に表明しても
顔を隠しもせず教授としてやってゆけてしまうくらいなんだから、
自分はずいぶんマシだぞという気になってしまう。
よくない傾向だ。
それは新聞を読むときも同じ。
自分についての相対評価なんて、タウヒードの道には必要ないはずだ。
アッラーだけを基準にする以上、絶対評価だけが問題になる。
精進精進。