復興というまやかし

今年の6月にはアフガニスタンへ向かうはずだった。
タリバンの残党に入れてもらって、
米兵を殺すところを見せてもらうはずだったのだ。
敵・味方を問わず、戦争から死を隠してはならないと、私は信じている。
それは戦争を終わらせる可能性を奪ってしまう。
米国という国が自国民の無惨な死に耐えられない構造になっていることは、
ソマリアでのブラックホーク・ダウン事件で明らかになっていた。
米国自身が、祖国に殉じた自国民の犠牲を握りつぶそうとしている現在、
米国民は両目を塞がれた状態におかれ続けている。
米兵の死体をメディアに見せつけてやることで、
アフガニスタンで彼ら自身がしていることの残酷さを
米国民は少しでも実感せざるを得なくなるだろう。

それが、隣国パキスタンで政府軍とイスラム組織が交戦状態に陥ったことで、
取材計画は延期を余儀なくされた。
タリバンに入れてもらうには、パキスタンイスラム組織を通す必要があった。
その組織が、混乱状態に陥っていた。

ニュースは、アフガニスタンの市民が希望に燃え、
復興に取り組み始めたと、連日伝えている。
それは、同時に伝えられている東部や南部での
反米抵抗勢力の掃討作戦のニュースと矛盾しているが、誰も指摘しない。
復興のニュースは、同じ場所で際限なく繰り返されている「死」を
取り繕い隠す役割を果たしている。

パキスタンでの政府軍とイスラム組織の衝突が一段落し、
再び取材できる可能性が出てきた。
しかし、同時にイラクでも、新たな戦争が始まろうとしているし、
チェチェン勢力の攻勢はその勢いを止めない。
どこから手をつけるべきか、こちらは迷うばかりなのだ。