総括でもないけど(その2)

これはどういうことかというと、「東長崎機関」ホームページの閲覧者は
サラリーマンなどの定職のある人が多く、
私のサイトは学生や無職の訪問者が多いということではないか。
加藤さんの作品はいつも、「強さ」を志向している。
軍隊の強さを描き、強い生きざまを賞賛する。
加藤さん自身が超人的な精神力と肉体をもって、それを生かして取材し、
読者は加藤さんの作品に描かれる軍隊や軍人、そして加藤さん自身に憧れる。
それに対して、私は弱さ故にこんな仕事をしている。
(私のイスラム改宗が弱さ故という意味では、加藤さんの国粋主義
弱さということになるのだが、ここでは論じない)
だから、加藤さんの読者と私のサイトの訪問者に傾向の違いが出てくるのは
当然のことなのだ。
トークライブの中で少し触れたが、以前私は
戦場ほどの極限状態は世界に存在しないと思っていた。
今はそうでもない。
極限状態は、実は日常の中に転がっている。
日本では年間2万人の自殺者が出るそうだが、
2万人の死者なんて、よほど大きな戦争でもなければ出ない。
自殺者の見る暗闇が、戦場の闇よりも明るいなどとは私は思わない。
目の前でせっぱ詰まっている人が、どうして他人の窮状を案じられるだろう。
そう考えると、国際報道が市民の関心を失ってしまった理由は納得できる。
しかし、此岸と彼岸、二つの極限が実は双子のような関係にあるとしたら?
実際、砲弾に砕かれて一瞬で無に戻る恐怖と、
じわじわと生きながら死んでゆく恐怖とでは、
後者のほうが大きいはずだし、より生々しくリアルなのだ。
戦場の極限は日常の極限に連続し、日常に極限を見る人は
戦場からなにかガイドを引き出せるかもしれない。
チェチェン人は意外に日本のことをよく知っている。
「自殺率が高いそうだな。なぜだ?」とか、
「毒ガスを地下鉄に撒いた目的はなんだ?」とか尋ねてくる。
彼らにとっては、自分たちの状況以上に日本の社会は恐ろしく、
不可解で不気味らしい。
私は日本という異様な世界で暮らしていることを常に気の毒がられ、
こちらに移り住んではどうかと薦められ続けた。
私のサイトでは、戦場を私たち自身の日常に引き寄せる試みを行った。
弱さ故に日常に極限を見る人たちは、戦場の恐怖にも共振できるのかも知れない。
日常に終わりのない不安を抱える現代の都市の人たちに向けて、
私は発信すべきなのではないか。