暗殺二年前のリトビネンコへのインタヴュー

    ロシア連邦保安局の元中佐・アレクサンドル・リトビネンコ氏へのインタヴューは04年7月と9月の二回にわたって行った。一回目は私がロンドンへ赴き、氏 の自宅で行った。二回目は東京から東京シネマ新社の岡田一男氏とともに国際電話をかけて話を聞いた。日本人が生前のリトビネンコに直接話を聞いたのは、二 回目のインタヴューで聞き手として協力くださった岡田一男氏と私だけであろうと考えられる。その資料としての価値を考慮して、全文を掲載することにした。 リトビネンコはこの二回以外にも、翌05年頃までにメールや国際電話で数回にわたって私にさまざまなアドバイスをくれた。

    話を聞いた04年当時と現在では、状況が変わっていたり、その後、新事実が明らかになったりしたものもあるが、リトビネンコが調査し、また収集した情報の価値が後世に正しく判断されるよう、敢えてそのまま掲載することにした。

    リトビネンコがプーチンを恐れさせたのは、ロシアでFSB将校として勤務していた時代に持っていた情報の重要さ故ではないと私は考えている。彼はロンドン に亡命後、情報収集活動をさらに先鋭化し、ロシア当局中枢に迫る人脈を広げ続けていた。諜報機関員というものは自分の存在や活動を秘密にしつつ働くのが一 般的だが、彼は素顔も活動内容も世間に晒していた。このため、プーチンに敵対したい勢力は誰でも、リトビネンコに情報を提供しさえすれば自分の身の安全を 守りつつ、世間に暴露したい情報を最大限の効果でもって広げることができた。そして、リトビネンコは世界中のプーチン政権に異議を唱える勢力にとっての情 報センターと化していたのだ。

    これは、彼が提供してくれた情報が亡命当時の古いものでなく、常に最新のものに改められていたことから伺えることだ。そして同時に、このことが彼の生命を危険に陥れたのだった。



第一回リトビネンコ・インタビュー2004年7月7日

 

Q 一般的にFSBというのはどのような組織で、またどのように活動していますか?

FSBというのはロシア連邦保安の略で、特機関として活動している。彼らの仕事はどこの特機関もそうであるように機動的諜報活動だ。この機動的諜報活動において連邦保安が達成しなければならない目的が問題だ。残念ながら、ロシアは旧ソ連時代に懲罰組織を持っていたという苦く悲しい経験を持っている。KGB(国家保安委員会)、NKVD(内務人民委員部)、PYR(革命軍事評議会政治局)、CHEKA(反革命取締非常委員会)などだ。これらの組織はソ連時代に主に共産主義イデオロギーの防護のために活動していた。つまり共産党政権の維持だ。

FSBは現在、KGBがやっていたことと同じことをやっている。ロシアは変化した、ロシアは民主主義の道を進んでいる、ロシアの特務機関はKGB時代とはもう違うと、いくら喧伝しても、私はKGBでも、ロシアになってからのFSBでも働いていたが、基本的には看板が変わっただけだと言える。

小さな雪解けの時代があった。それは1991~1993年のエリツィン初期で、エリツィンがまだそれほど病気ではなく、国をコントロールできていた頃だ。93年からKGBの時代にテロリスト工作や異論派迫害の仕事をしていた人たちが、ロシアのFSBの首脳に戻ってきた。95年からロシアの特務機関では大きな転換点があった。この時点から彼らはKGBがやっていたことを再びやり始めたのだ。ロシアや世界で起こっていたプロセスを思い出してみると、1991年から1993年は実際、世界にはテロ事件が起こらなかったことが注目される。何らかのテログループが活発に活動していたとは聞いたことがなかったはずだ。これは何と結びついているのか。これはテロリストを長年に渡って支援し、養成し、テロ活動を拡大させていたのは、ソ連KGBだったということとまず結びついている。

私は、KGBがテログループと関係を持っていただけではなく、直接に彼らを指揮を執っていたということを証明する大量の資料を持っている。テロ組織は、KGB将校たちが、アンドロポフ自身(KGB長官)の命令により、またソ連共産党中央委員会政治局書記長ブレジネフと政治局の許可をもらい、行っていたのだ。

ワイク・ハダットの例を挙げよう。彼は有名なパレスチナのテロリストで、パレスチナ人民解放戦線(PFLP)国外作戦部の指揮官だった。彼は68年以来KGBの諜報員だった。彼は20年以上、KGBと協力関係にあった。まあ、これは私が持っている資料のよるとで、もしかしたら今現在も協力関係にあるかもしれないが、私は知らない。とにかく私は彼がKGBと20年以上も協力関係にあるという資料を持っている。彼はイギリスやアメリカのフランスの市民を攻撃するという数多くのテロを行った。彼は大手の金融企業のオフィスに対する略奪攻撃を行い、タンカーやスーパータンカーを爆発させた。彼は自分のテロ犯罪のための資金と武器をすべて直接KGBからもらっていた。私には1975年の5月14日にアドリア海の湾で、ソ連工作船で、外国製の武器一式と30万発の銃弾、58丁の消音装置つき自動小銃などが、大規模テロを行うためにワイク・ハダットに手渡されたという資料を持っている。その前にハダットはリビアKGBの建物で、武器譲渡の手段、およびそれをどのようなテロ活動に使うのかについて話し合った。

すでに話したように、それまでの1991年~1993年にはテロリズムはなかった。1993年にエリツィンが病気になり、国支配のコントロールを失い始めた頃、KGBでユーリー・アンドロポフ(KGB長官)の下でテロ活動を行っていた連中が、諜報部門の首脳に戻ってきた。そしてテロ活動が始まった。最初、テロはロシア国内で始まった。その後、海外のテログループも活発にはなり始めた。これはロシアの特機関が再びテロ活動を始めたことを証明している。

事実無根ではないことを証明するために、いくつか例を挙げたいと思う。1997年にFSB長官ニコライ・コワリョーフの命令により、私はFSBでもっとも極秘の部署、組織犯罪対策局に配置された。この局は96年にエリツィンの極秘命令により設立され、裁判によらない処刑にたずさわった。つまりロシア首脳部やFSB首脳部に不都合な人たちを殺すことだ。私はこの局の第7課の副課長だった。我々の課は何人かの抹殺作戦を行った。

まず最初に我々の課に命令が来て、我々が作戦準備を始めたのが、モスクワ州税務警察長のミハイル・トレパシキンだった。彼は非合法にFSBによって職務を追放されたので、FSB相手に裁判を起こしていた。加えてトレパシキンはマスメディアのインタビューに応じ、エリツィンに直接、手紙を書き、その中でFSB首脳部は汚職にまみれ、集団強盗になっていると指摘した。私にはロンドンにやってきたトレパシキンの署名の入ったの手紙のコピーがある。トレパシキンがマスメディアのインタビューに応じエリツィンに手紙を出した時点で、彼を殺せという命令が出され、我々はその作戦を始めた。

また我々の課には、オマール・ジャブライーロフ・の誘拐作戦を準備した。彼は現在、上院議員で、チェチェン人だ。また我々の課に暗殺命令が出て、我々がその準備を始めたのは、有名な政治家でありビジネスマンである、前国家安全保障委員会書記のボリス・ベレゾフスキーだ。

しかし我々の課で反乱が起きた。首脳部によるこのような暗殺命令に従えないと、拒み、ただ一つの暗殺も我々の課では行わなかった。別の課が暗殺を実施した。そしてスキャンダルが始まった。98年に我々は検察局に訴えた。当時は軍事検察局のトップはユーリー・デョーミンだったが、彼はFSBの正職員でFSBから軍事検察局へ出向していた。デョーミンは、これらすべての暗殺の注文主であったFSB長官のコワリョフと近しい関係だったので、もちろん我々の訴えにはブレーキがかけられ、非合法に葬ってしまった。

その後、我々は法でこれらを裁くことはできないと悟ったので、4人の上級将校と2人の下級将校と一緒に、98年の11月にモスクワで記者会見を行った。そしてマスメディアを通じて、議会、大統領、世論に向けて、ロシアの特機関は、事実上犯罪者のグループに変化したと訴えた。国家の保安に務めるはずの機関が犯罪・強盗行為、誘拐、麻薬不法取引に手を染めていると訴えた。我々はただ首脳部を事実無根に訴えたのではなく、将校たちにより、準備され、実施されたちゃんとした大量の資料を基に訴えた。

たとえば隣の第3課では、チェチェンで人びとの誘拐を行っていたという例を挙げることができる。モスクワにあるFSBの施設の一つであるスポーツ施設に誘拐した人を3日間にわたって留置し、その後その人の親戚から身代金を取り立てた。一人につき15万ドル得た。我々首脳部は、誘拐を行ったチェチェン人のグループとその金を山分けにした。

現在、プーチンが96-98年にマスハドフ大統領はチェチェン領内でテロ行為を行ったと非難しているが、私は唯一つの犯罪グループもチェチェン領内で暗殺・誘拐、テロ行為を単独で行なっていないと公式に表明したい。つまり、ロシアの特機関が関わって行われたものだ。ロシアの特機関が犠牲者について指示を出して、チェチェンのグループを使い、その人を誘拐し、ロシアに連れて来させ、その後、親戚に売ったのだ。もしその金持ちの誘拐対象がロシアに住んでいる人だとすると、その人を誘拐し、ロシア領内からチェチェン領内へ連れて行き、その後、その人の親戚に売ったということだ。すべての資料は我々の課にあり、すべての事実を記者会見で公表して、検察局、議会、大統領、ジャーナリストによって客観的に調査してもらおうと訴えた。

またその98年の我々の記者会見を注意深く聞いていると分かるのだが、わが国の特機関では反乱が起こっていたことがわかったはずだ。ロシアの特機関は国家のコントロールから離れ、エリツィン時代にはせめてあった社会の弱いコントロールからも離れてしまったのだ。エリツィン時代にはまだ特機関に対する社会のコントロールがあった。当時はまだ彼らの犯罪行為にはおおっぴらには行われていなかった。特機関の将軍たちはロシア社会の世論やジャーナリストたちを恐れていたし、もしあまりに汚い犯罪に手を染めたら、ルビャンカ広場(FSBがある)の外に出て、社会に知られてしまい、エリツィンに知られることになり、その責任を取らされてしまうと知っていた。

98年からプーチンFSBのトップになり、ロシア特機関の将軍たちは恐れることをやめてしまった。彼らは全くコントロールからぬけてしまった。98年の終わりにはロシアの特機関がロシアの権力を事実上、手に入れた。自分たちの親玉を大統領の座に座らせたのだ。

もし98年に私が仲間たちと記者会見したときに、あらゆる方向からの調査が行われていたら、99年9月のモスクワやその他の都市での住居アパートの爆発はなかっただろうし、犠牲者も死ぬことはなかっただろうと私は確信している。また300,000人以上の民間人、ロシア兵士、チェチェン抵抗勢力の犠牲者を出した第2次チェチェン戦争もなかっただろう。

 

Q カタールでロシアの特務機関は最近ヤンダルビエフを暗殺したが、国内だけではなく、海外でもロシアのFSBは以前にもそういうことをしたのか?

ヤンダルビエフが暗殺された日の朝、『モスクワのこだま』というラジオ局のジャーナリストから電話があり、彼からヤンダルビエフが暗殺されたことを知った。私はロンドンなので、時差は3時間だ。モスクワではもっとも人気のあるラジオ局の一つのジャーナリストが『アレクサンドル、今日、カタールでヤンダルビエフが爆されたのを知っているか?誰がやったと思うか?』と聞いてきた。私には、これはロシアの特機関が暗殺したものだと疑いもなかった。ヤンダルビエフは誰のことも脅迫したわけでもないし、ヤンダルビエフはカタールに住み、詩や本を書き、公にチェチェン戦争批判をしていた。彼はオープンな政治家で、何も非合法活動には従事せず、唯一、自民族の言論の自由を要求していた。このために彼は殺されたのだ。これだけのために。

どうしてこんな言い方をするのかというと、ヤンダルビエフの暗殺は非常に綿密に計算され、世論を準備したもので、ロシアの特機関と政府はこの暗殺により大きな政治的見返りがあったことを証明する事実がいくつあるからだ。何のことを言っているのかというと、まず第一に2002年にノルド・オスト劇場での人質事件があったとき、2002年か、2003年かちょっと失念したが、モスクワのノルド・オスト劇場で人質が取られたという大きな事件があったときに、ヤンダルビエフに電話番号が渡され、モスクワに連絡するように頼まれた。ヤンダルビエフはこの電話にかけるべきかどうか迷ったが、人質として劇場内にいる多くの民間人のことを考えた。そもそも彼は人質を取るという行為には断固として反対の立場で、このような行為を行った人を公に批判していた。ヤンダルビエフはこの番号に電話をかけた。電話をとったのは、人質をとったテログループのリーダーであったバラーエフだった。ヤンダルビエフはバラーエフにただちに無条件で人質を解放することを要求し、人質をとった人たちの運命はロシアの特機関に任せと話した。このことについて私の知っている限りでは、この人質解放の指揮を取っていた本部に伝えられたという。ヤンダルビエフはその日の夜、ロシア大使館に自分がバラーエフと話をつけて、人質は解放されるとの手紙を預けた。ヤンダルビエフとバラーエフとの会話は、金曜日だった。バラーエフは土曜日に人質を解放するはずだった。土曜日の朝早く、だいたい4時くらいに人質をとったグループの一人テルキバーエフが劇場の屋根に上り、空に向かって射撃をした。その時、そこではFSBが有毒ガスを劇場の中にいる人たちに散布する準備をしていた。テルキバエフは、ロシアFSBによって無傷で生け捕りにされた。特務機関は、テルキバエフが空に向けて撃っただけなのに、テロリストたちが人質に向けて銃撃を始めたと言って、テロリストたちはただの一人も人質を射殺していないのに、1時間後に神経麻痺ガスを投げ込んだ。我々には神経麻痺ガスと言っているが、実際には戦闘用有毒ガスのことで、それが劇場にいた130人を殺した。その後、劇場に特殊部隊が入り、寝ているテロリストたちを殺した。そのほとんどが20歳くらいの若い女性であり、意識のない状態で、射殺する必要もなかったのに、逮捕し、どうしてこのような行動に出たのか、取調べを行うべきところを殺害した。これらの若い女性たちは、小さい頃からテロリストとして育てられていたのではなく、彼女たち一人一人がやむにやまれぬ状況でそこにいたのだ。彼女たちの人生が、武装してモスクワに行くように仕向けたのだ。彼らのチェチェンでの生活状況はもう我慢の限度を越えていた。すでに今明らかになっていることによると、彼女たちの大半が、多くの家族を失っているのだ。これはこれらの人たちの絶望行為だったのだ。彼らは手に武器を取り、モスクワに向かい、チェチェンでの流血事態をとめるために、絶望的な行為を行った。彼らの唯一の要求は、戦争をやめ、人殺しをやめることだったのだ。私は彼らを正当化しているのではない。ただ寝ている、意識のない状態の彼らを、人質をとるという犯罪を犯したにせよ、彼らはただの一人の人質も射殺していないのにもかかわらず、寝ていた状態で殺すのは、これも劣らず犯罪だと思う。

この後、空に向けて撃ったテルキバエフは、数ヶ月すると、ラゴージンとともに、ロシア代表団の一員として欧州議会議員評議会(PACE)にいた。ラゴージンは有名なロシアの政治家で、ロシア議会の国際問題委員会議長をしていた。このテルキバエフこそが、モスクワに電話をかけるようにとヤンダルビエフに電話番号を与えた人だった。ヤンダルビエフがモスクワに電話をかけた後、特機関はヤンダルビエフがテロリストと関係を持っていると公表した。その証拠として、ヤンダルビエフとバラーエフとの電話会談が挙げられた。もしこの電話を注意深く聞いてみればすぐに分かることだが、ヤンダルビエフはなんら犯罪と関係がなく、ヤンダルビエフはバラーエフに人質を解放するようにと要求したに過ぎないということが分かる。私はヤンダルビエフが罪のない人を解放するように頼んだことを犯罪だとは思わない。

つまりロシアの特機関はヤンダルビエフをテロリストとして指名手配した。その後、彼らはカタールにヤンダルビエフの身柄引き渡しを求めた。カタールの関係機関は、その要請を詳細に調べたが、もちろんヤンダルビエフが犯罪を行ったという証拠は何ら見つからず、ヤンダルビエフ身柄引き渡し拒否をロシア検察へ伝えた。ロシアの特務機関はカタールの裁判所にも訴えたが、カタールの司法機能は公正であることが分かった。カタールの裁判所は、カタールの警察は、ヤンダルビエフがテロリストだという証拠が何も見つからなかったので、ロシア側に引き渡さなかった。その後、ロシアの特機関はカタールの首都ドーハに3人の暗殺者を外交ルートで入国させた。一人は外交特権を持っていた。さらに外交行嚢で爆発物を送っていた。これはまさに国家テロリズムだ。カタールの裁判所と国家がヤンダルビエフのロシアへの身柄引き渡しを拒んでから数ヵ月後、ヤンダルビエフは爆発物によって殺された。ヤンダルビエフとその息子に対しカタール領内でテロ行為が行われた。もう一度言うが、これは国によるテロリズムなのだ。

ロシアの特務機関は、現在、50年代末期以降は暗殺には従事していないといっているが、これはすべて嘘だ。ロシアの特務機関は1917年代に始まり、歴史上ずっと暗殺に従事していると私は言う。ただ唯一彼らが暗殺に手を染めなかったのは、1991~1993年だけだ。80年代中ごろ、85年から彼らはソ連内での暗殺にのみ従事していた。85年代からソ連国内では深刻な問題が表面化し、外国での破壊活動どころではなくなっていた。93年から再び彼らはロシア国内での暗殺を開始した。彼らはビジネスマンや政治家の暗殺を始めたのだ。

私は特機関によるいくつかの有名な政治家の暗殺を挙げることができる。まず国会議員ユシェンコフの暗殺。この暗殺の直接の執行者についていろいろと言われているが、それらは議論の対象にもならないお粗末なものだ。ロシアの特機関はずっとユシェンコフを監視していた。私個人にユシェンコフ自身が殺される1ヶ月、1ヵ月半前に語っている。私は彼とは親しく、何度かロンドンで会ったことがある。最後に彼とロンドンで会ったときに、ユシェンコフは私に『アレクサンドル、どう思う、あいつらは私のことを殺せるかな?』と聞いた。彼らはユシェンコフを監視していて、行動や交際関係や移動の全てを把握していた。ロシアの特機関の監視下に置かれた人物は、普通のキラーが、密かに殺すことなど不可能だ

第2にロシアの特機関は、民族学者で国会議員だったガリーナ・スタロヴォイトワを殺した。今日、サンクト・ペテルブルクの被告人席には、この暗殺を行った殺人者のグループ、犯罪集団員が座っているが、私は自分がまだ働いていた97年にこの犯罪集団について、すでにサンクトペテルブルクFSB支局に向けて報告を送ったことがある。当時、チェルケソフが支局長をしていたが、彼は現在のロシアの大統領プーチンに近い人間だ。このグループのただの一人の犯罪者も逮捕されなかった。大きなスキャンダルがあった後、逮捕されたのだ。検察はガリーナ・スタロヴォイトワを暗殺した者を事実上探さなかった。彼女を殺した犯人はタンボフ・マフィアのボスと緊密な関係を持っていた。

このボスは、チェルケソフともプーチンともスミルノフ、そしてパトルシェフとも深いかかわりがある。パトルシェフはFSB長官、スミルノフはその副長官、プーチンはロシア大統領、チェルケソフはロシア高官の一人。またこのタンボフ・グループはロシア大統領府第1副長官ビクトル・イワノフとも深い関係がある。これらの人たちは、サンクトペテルブルクで、処罰されることもなく活動しているタンボフ犯罪集団ともう10年以上も関係をもっている。彼女の暗殺者もまさにこのタンボフ犯罪集団のボスと関係があるのだ。タンボフ犯罪集団のボスは、FSBサンクトペテルブルク支局がこの犯罪をカバーしてくれるという保証なしには自分の配下にロシアの政治リーダーたちを暗殺せよという命令を出すことはないと私は断言する。

またサンクト・ペテルブルク元市長、アナトリー・サプチャクも説明のできない理由で死んでいることも言っておこう。

ロシアの特務機関によって、有名な政治家であり、ジャーナリストでもあったユーリー・シカチーヒン(『ノーヴァヤ・ガゼータ』紙副編集長)が毒殺された。彼には放射性タリウムが使われた。私が話した『ノーヴァヤ・ガゼータ』紙の同僚ジャーナリストたちは彼の症状を事細かに話してくれた。私は専門家と話をし、これは何の症状なのか聞いてみた。するとみんな一様に放射性タリウムだろうということだった。彼には皮膚の老化が見られ、7日間で30歳も年をとったようだったという。どの専門家もこれは放射性タリウムによる中毒症状といった。その人はみんなの目の前で、7日間で燃え尽きてしまったのだ。何故か、これらすべての殺人は、ごく日常的な理由付けが仕組まれる。主に殺人は金銭か、取引のもつれが原因とされるが、ビジネスをしない人、たとえばシカチヒンのようにジャーナリズムだけに携わってる人の場合、彼らは取引のもつれを原因とする殺人では無理があるので、毒殺となるのだ。このように93年から2003年までロシアの特務機関はロシア内部での暗殺に従事していた。

私がチェチェン領内のことを挙げだしたら、もうきりがない。ロシア特務機関は、人を誘拐し、人を消すだけでなく、有期刑裁決の出た、チェチェンの指導者たちを処刑している。今のロシアには死刑がない。廃止されてはいないが、もう長いことモラトリウムにあり、つまり廃止されていないけれど、死刑判決はない。しかしロシアの特務機関は、邪魔な人を裁判後に殺している。たとえばラドゥエフやアトゲリーエフは裁判を受け、有期刑判決が出たが、その後、刑務所の中で処刑された。つまり刑務所の中で、裁判によらない処刑が行われたのだ。これはいわゆる見せしめ処刑で、確かにわがロシアには死刑はモラトリウムなので死刑執行はないが、どのみち特務機関は、殺したいやつを必ず殺すぞ、という彼らのメッセージなのである。

2004年からは、このようにロシア国内とチェチェン領内で行っていたやり口を外国にも広げた。ヤンダルビエフの暗殺の数日前にモスクワで、大統領選挙キャンペーンが始まった。プーチンは第二期に立候補することを決めた。ロシア各都市の住居アパートの爆発と第2次チェチェン戦争の後押しで、プーチンは第一期選挙キャンペーンをスタートさせた。何を彼らは社会に訴えることができるのか、どんなPRがあるのか、選挙キャンペーンで何ができるのか、彼らにできるのは一つだけ、帝国主義的思想と社会を善人と悪人に分けることだけだ。彼らはロシアを白か黒かに分けた。つまりスラブ系の顔をしているか、コーカサス系の顔をしているかだ。コーカサス系の顔をしている人はさらにテロリストか、そうではないかに、分けられた。

国民が熱愛するプーチン大統領の強い手腕を見せつけるために、彼らは次のような扇動を起こした。まずモスクワの地下鉄を爆破し、この爆発の30分後にプーチンはテレビ出演し、国民にロシア特務機関の懲罰の手が、必ずテロリストたちを始末すると約束して見せた。プーチンは誰が地下鉄を爆破したのかを知っている、そのための証拠は何も要らない、これはマスハードフがやったことを私は知っていると語った。彼は何の証拠もなく、ある人物を直接責めた。調査はまだ始まっていなかった時点においてだ。この2日後に、カタールでヤンダルビエフが爆殺された。

私はモスクワの爆破とヤンダルビエフの爆殺には直接のかかわりがあると見ている。これはプーチンの選挙キャンペーンだったのだ。ここで、もちろんカタールの特務機関員の功績が大きい。彼らは、短い期間に難しい仕事をやり遂げた。特務機関員によるテロ活動摘発は困難な課題だと私は思う。1917年来の歴史上初めて、テロ行為を行ったロシアの特務機関将校が捕まり、裁判により残忍なテロ行為が裁かれた。彼らは有罪とされ、終身刑を言い渡された。どうして彼らに死刑が言い渡されなかったのか、裁判で刑が軽くされたのかというと、彼らは単なる実行者であり、この犯罪の注文主は、裁判の判決文に書かれているように、ロシア連邦の政府高官であるからだ。つまりカタールの裁判所は事実上ロシア政府がテロリストだと認めたのだ。

 

Q 日本ではロシアの特務機関がチェチェン政府の信頼失墜を図っているが、どう思うか?

日本におけるロシア特務機関によるチェチェン政府の信頼失墜とロシア特務機関の活発化については次のことが言える。ロシアに旧KGB将校であったプーチンが権力を握って以来、ロシア特務機関は手を広げてきた。彼らは事実上法の枠内をはずれ、好き勝手をやり出した。彼らは裁判、検察局、内務省、すべての省をコントロールし始めた。外務省もその中に入っている。

 

Q 独裁政治ですね?

ええ、彼らはロシアに特務機関による独裁政治を敷いたのだ。ロシアは現在、シロビキ(軍事治安機関)国家である。言論の自由も、マスメディアの独立性もない。自由はどんどんなくなっている。ビジネスでもそうだ。ロシア特務機関のコントロールに入っていない大規模ビジネスはない。ユーコスという石油会社があり、ユーコスはそのコントロールに入ることを拒んだのだ。その結果、この会社がどうなったのかは皆さんも知っている。事実上この会社は破壊され、立派な人間であった社長のホドルコフスキー氏は今、刑務所の中にいる。私は公表された罪で彼が刑務所にいるとは思わない。

同じことがロシアの諜報活動にも言える。その背後にはプーチンがいる。プーチンは彼らに青信号を与えたのだ。プーチンがロシア大統領になってから、西側外国、アメリカ、日本などにおけるロシアの諜報員の数は、ソ連時代と同じくらいになった。いくつかの国ではソ連時代より多くなった。たとえば私の知っているイギリスではソ連時代よりも多くなった。日本でもそうだと思う。

どうしてロシア特務機関は日本に興味を持っているのか。それはまず日本が最大の経済ポテンシャルを有する大国だからだ。日本にいる特務機関員は、主に2つの方向で仕事をしている。まず経済諜報活動。2つ目が内政干渉、つまり自分たちの諜報員を日本の政治構造に介入させることだ。どうしてこのようなことをしているのか。経済諜報活動は自明のことだ。日本は最も強大な経済大国の一つで、その技術は精密で、日本製品はロシアの特務機関、特に技術諜報員の興味を引いている。これらの技術を軍事技術に導入するためなどだ。第2の政治的諜報活動について。ここでの主な活動は、日本はG7に入っている。プーチンは何とかしてその中に入ろうとしている。確かにロシアはたぶん88年からG8として入っているが、それはG7の正式な8番目の国としてではない。どうしてプーチンはG7に入りたいのか。それは自分の帝国主義的野望を満たすためであり、国際政治に影響を与えるためだ。

どうしてロシアの特務機関はチェチェン人の信頼失墜に努めているのか。まず第一にプーチンチェチェンにしていることは、民族大量虐殺(ジェノサイト)だ。民族大量虐殺の過程でチェチェン民族の4分の1が殺戮された。しかも主な犠牲者は、山の中で武器を手にし、民族解放を求めている人ではなく、村や町で平和に暮している人たちだ。ほとんどが破壊されてしまった。主に死んでいるのは女性、老人、子供なのだ。それに我慢できなくなった人びとは、積極的にチェチェンにいるロシアの特務機関やロシア軍に公然と抗議し始めた。彼らは、人権を主張し、誘拐された人びとの解放を求め、ピケを張り、道路を封鎖し、ロシアの特務機関が人びとを誘拐することをやめるように要求している。ジャーナリストと接触し、何がチェチェン共和国領内で起きているのか、真実を語り始め、またロシアの裁判所、国際裁判所にも嘆願書を出し始めた。しかし、このような人びとを、特務機関は尾行し、殺害している。特務機関は、人びとを殺して、埋める。殺す前には、暴行を加える。もし今、チェチェン共和国各地でシャベルを持ち、地面を掘ったら、5回掘ったら、そのうちの2-3回は、頭部のない、暴行された死体を発見することになるだろう。チェチェンの土地は死体でいっぱいだ。これはたとえば日本だったら、広島と長崎に原爆が落とされたことと匹敵する。しかも主な犠牲者は女性、老人、子供を中心とする民間人なのだ。軍人は何とか自分を守ることができるだろうが、これらの人たちは、空爆から自分の身を守ることができない。彼らがまず第一の犠牲者だ。だから今、チェチェン共和国で起きていること、プーチンチェチェン共和国で行っていることは、日本で言えば、1945年の原爆投下の悲劇にも匹敵することだ。日本人はあの悲劇を一生忘れることはできないだろう。

しかし、チェチェン人の方がもしかしたらもっと悲劇かもしれない。彼らはもう5年間殺され続け、国民の4分の1が殺されている。今やプーチンと彼の補佐官たちには、チェチェン領内で行われている民族大量虐殺の事実を隠すことが、どんどん難しくなっている。またエリツィン時代には比較的民主的な国家であったロシアが、全体主義的になり、ファシストの思想に席巻されているという事実を隠すことがますます難しくなっている。

このためプーチンは何とか自分を救うために、欺瞞を使って、チェチェンと世界テロとを結び付けようとしているのだ。ロシアの特務機関は、チェチェンの反体制勢力が世界テロと結びついているという資料を公表している。そこで私が言いたいのは、チェチェン人はもう400年もロシアからの独立のために闘っているということだ。この戦いが始まったのは、テロリズムについて誰も知らなかった頃のことだ。そんな言葉すらもなかった。当然、この400年の間、戦いは消えかかったり、また盛んに燃え上がったりしてきた。その過程でどんどん新しい形になってきた。たとえば100年前には主な武器が剣と馬であったものが、今日では自動小銃、機関銃、装甲車である。ロシア軍がチェチェン抵抗勢力から反撃を受けることは、プーチンも知っているし、チェチェン抵抗勢力のリーダーたちも知っている。何とかしてマスハドフ大統領の評判を落とすために、プーチンと特務機関はテロ行為を組織している。彼らはロシア領内でさまざまなテロ事件を組織してきた。

あなたに差し上げた著書の中には、ロシアの特務機関がモスクワ、および他の都市での集合住宅爆破を組織した直接の証拠が載っている。この本の中には、この10年、ロシアでは大量のテロ工作が行われたことが非常に詳細に書かれている。93年にモスクワの鉄橋を爆破しようとし、誤爆事故で、自分も死んだシリンコフ大尉は、FSBの諜報員だった。94年に第1次チェチェン戦争が始まったときに、ロシア政府はチェチェン人をテロリストとして信用失墜させようと試みた。そこでロシア諜報機関はモスクワで一連のテロ行為を組織した。そのうちの一つは、別の治安機関に摘発され、モスクワの旅客バス爆破事件の犯人が、ロシアの裁判所で裁かれた。犯人は、ヴォロビヨフという名のFSB中佐だった。

ロシアの特務機関員は、文字通りロシアで行われたすべてのテロ行為に関与してきた。80%の国民は、疑いもなくそれらの爆発はFSBがやったと思っている。その辺のジャーナリストに聞いてみ給え。もちろんそれを口にすることを恐れるかもしれないが、プライベートの時に聞いてみれば、特務機関の仕業に違いないと言うだろう。彼らがテロ行為を行ったという証拠の一つが、すでにお話したように暗殺対象となった弁護士、ミハイル・トレパシキンの逮捕だろう。彼は容赦なくFSB内の汚職と闘おうとしたので、最初、FSB組織から追放された。その後、彼を暗殺するよう命令されて、私は拒んだ。FSBを首になった後、トレパシキンは税務警察で働いたが、税務警察も首になった。その後で、彼は弁護士になった。彼は99年に爆破されたモスクワの集合住宅の犠牲者の遺族と契約を結び、彼はロシアの特務機関がこれらのアパートを爆破したという直接の証拠を手に入れた。そして、まさにアパート爆破裁判の数日前に、彼にピストルの銃口が向けられ、牢屋に入れられ、今現在もそこにいる。

ロシア特務機関が自らテロ行為、汚職、犯罪組織を行っているために、またロシア政府が誰にも必要のないチェチェンでの戦争を始めたために、チェチェン共和国は廃墟となった。現在、FSBの主な任務は世界中に散ったチェチェンの指導者たちを抹殺することだ。ロシアの特務機関がロシア領内だけではなく、西ヨーロッパ、もしかしたら日本でも一連のテロ行為をする可能性を私は否定しない。オウム真理教とロシア政府の首脳部や特務機関の上層部が直接コンタクトを持っていたのは、ごく最近の事だ。日本でテロを起こしたオウム真理教と関係を持った首脳部や特務機関の人たちのうち、ただの一人も捜索されていないし、仕事から追放されていないし、そのまま仕事を続けている。相変わらず別荘や邸宅、権力を維持している。彼らのことは公には誰も裁いていないし、政治の舞台からも身を引いておらず、そのまま活動をしている。まさにこのために彼らは世論を準備している。外国では、自分たちの同業者である治安機関に、チェチェン人は皆テロリストだという考えを吹き込んでいる。後に日本でテロが起きたときに、彼らはほら、我々は警告したでしょう、これはチェチェン人の仕業ですと言うためだ。ロシア特務機関に丸め込まれたチェチェン人を日本に送り込み、爆破事件を引き起こし、後でこれはチェチェン人の仕業だと言いだす可能性を、私は否定しない。

日本にとってチェチェンは地球の反対側、遠くにある。チェチェンの独立派の指導者であるマスハードフは、今現在、日本に対し何ら政治的野心は持っていない。彼には日本の政敵などはいない。むろん友人はいるだろう。どの国にも正直な人間はいて、チェチェン人が自由のために戦っており、道義的にチェチェン人を支持する人はいるだろう。繰り返して言いたいのは、国民によって選出された大統領であるマスハードフは、国際監視機関の臨席で行われた選挙で選出されたが、彼は日本に対し政治的野心も持っていないし、敵もいないことだ。一般的に言ってテロリズムチェチェンの首脳部が使う手段ではない。チェチェンの首脳部は、今戦っているロシアにおけるテロ行為すら考えていない。マスハードフは常にテロ行為を批判している。彼はテロ行為は我々の手段ではないと言っている。マスハードフが日本にテロリストを送らなければならな理由など存在しない。ロシアの特務機関は、チェチェンマスハードフと関係のあるテロリストが日本にやってきたなどと書いているが、何のためにやってきたのか。どうして日本にやってきたのか。これはまったくナンセンスだ。これは自分でテロを起こすかもしれないプーチン一派の世論工作の一つなのだ。マスハードフの信用を失墜させるためのもの、またロシア大統領プーチンが行っている民族大量虐殺を隠し、それから目をそらすための企みなのだ。

 

Q 全世界がアルカイダと9/11に興味を持っている。

アルカイダについて。私は約20年間KGBFSBで仕事をしてきた。機動任務につき、反テロ、組織犯罪取締りの仕事をしてきた。その経験から、どんな犯罪グループも、どんなテログループも、特務機関や国家の支援なくしては、長いことは存在することができないと明言できる。つまり大まかに言ってしまうとテロリストは、外交官パスポートを持って、世界を股にかけているということだ。カタールでの場合と同じだ。あのテロのリーダーは、外交官で、爆弾は外交行嚢として送られた。

アルカイダについては、アルカイダの2人の人物がKGBとつながりを持っていたことを私は知っている。まず第一に、ナイマン・アル・ザワヒリ。彼は、97年に半年間、ダゲスタン領内でFSB特別訓練に参加した。アル・ザワヒリの裏にはFSBがいるという情報漏れがあった後、2001年か2002年に、FSBは確かにアル・ザワヒリはいたが、彼は逮捕されていたと公表した。私は97年当時は、国際手配されたテロリスト捜索にたずさわる部の長をしていたので、誰もアル・ザワヒリのことを調べなかったし、何の報告書もないことを断言できる。しかもアル・ザワヒリは当時すでに国際テロリストとして指名手配されていたので、アル・ザワヒリが逮捕されていたとするなら、調べられて、彼の正体は、その外見や指紋によりすぐに判明しただろう。彼はそれまでにすでにエジプト・イスラムジハード団という有名なテログループのリーダーであったからだ。エジプト政府が彼の手配を出していた。指紋も分かっていたし、外見・容貌も公表されていた。97年にもし彼がダゲスタンで逮捕され、調べられていたら、彼がアル・ザワヒリだと、ものの15分で判明したはずだ。アル・ザワヒリは逮捕もされてなかったし、拘束もされなかった。彼はFSBの特別トレーニングを半年間にわたって施された。これはテロリスト養成の必修プランで、KGB時代にテロリストを養成していたときも、いつも半年間の訓練が行われていた。彼らにはテロリスト養成の特別マニュアルがあり、私はKGBが作成した、パレスチナ、イラン、イラクサウジアラビア、シリア、スーダンからのテロリスト養成についての文書がある。超極秘の文書だ。またアイルランドのテロリストもKGBは半年訓練をした。そのようなトレーニングをアル・ザワヒリは受けたのだ。彼は中東に出て、ダゲスタンでトレーニングを受け、その後で、アフガニスタンのビン・ラディンの元に行った。それまで彼らはお互いを全く知らなかった。彼は、なにやら推薦文のようなものを携えていたらしい。やがて彼はアルカイダのNo.2になった。

その他、アルカイダにはロシア特務機関からの諜報員がもう一人いる。それはナマンガニ師で、彼は1989-91年、バラシュケのソ連特務機関の特別学校で学んだ。

 

ナマンガニは、諜報員というよりも、FSBの職員そのものだ。バラシュケで目撃された後、彼はタジキスタンに行き、そこからアフガニスタンに入った。今は、ビン・ラディンの側近の一人になっている。

ロシアの特務機関が9.11のテロと結びつきがあるかとの質問だが、私は事実無根なことや、自分の知らないことには触れたくない。ただ私は事実だけを述べ、結論は君たち自身が出して欲しい。私にはロシアの特務機関が9.11のテロ行為と関係があるという証拠はない。私が持っている証拠は、ロシアの特務機関がアルカイダと結びついているということだけだ。

私は一つの事実を持っている。もしこの事実を調べるならば、多くのことが符合するだろう。2001年9月11日にあのテロが行われた数日後、ロシア特務機関は、チェチェンのある隠れ家で光ディスクを「発見」したのだ。それにはボーイング735だったか、737、あの9.11のテロを行った飛行機のパイロット用マニュアルが収まっていた。そこで疑問がわく。この隠れ家はチェチェン人テロリストのものとされたが、その前も、その後も知られていなかったところだ。この隠れ家が、特務機関によって設置されたものであることは疑いもない。この隠れ家が見つかったのは、まさにあのテロが行われた翌日だったか、28時間後に見つかった。この隠れ家がロシア特務機関によって9.11前に作られたものか、9.11後に作られたものか、という疑問が起こる。もしこの隠れ家が9.11前に作られたものだとしたら、特務機関はどうやってこのタイプの飛行機を使ってテロが起こると知っていたのか。もしこの隠れ家が9.11後に作られたものだとしたら、彼らの罪は軽減される。もちろんチェチェン政府にとっては、挑発行為であることに違いないのだが、一体どうやって、彼らはこの光ディスクをこんなに早く手に入れたのか、疑問がわく。光ディスクだけではなく、書類も発見されたのだ。だから、これは非常に重要な問題で、この問題について、アルカイダのテロ行為について捜索しているアメリカの機関やその他の国の機関も、特に9.11のテロ行為について調査している人たちは、まず隠れ家の設立とその発見という事実を調べることをお勧めする。すべてを詳細に、誰が置いたのか、誰の隠れ家だったのか。ロシアの特務機関の指令を受けた人物を特定すること、などすべての目撃者を取り調べ、この隠れ家から発見された物品をすべて調べ、光ディスクを調べたら、専門家はこの隠れ家が9.11前に作られたものか、9.11後のものか、明らかにすることができるだろう。これはロシアの特務機関の誰かが飛行機を使ったテロが行われることを知っていたことを示すものだ。

チェチェンの戦闘員、チェチェン首脳部には、こんな光ディスクは全く必要のないものなのだ。パイロットに聞けば分かるが、どんなに光ディスクを持っていたとしても、模型訓練がなければ、飛行機操縦を教えることは不可能だからだ。チェチェン共和国ではすべてが破壊されており、2001年までにはすべてのインフラが破壊されており、ボーイングを操縦するパイロットになるということは、当時全く不可能であった。

 

Q 日本人にメッセージを。

私は大政治家でもないし、日本人にメッセージを送るのは難しいことだ。ただ私は20年以上ロシアの特務機関に勤めた経験から、ソ連プロパガンダは、常に日本人は我々の敵だと教えてきた。日本のサムライが、常に我々の祖国を攻撃しようと狙っていると言われてきた。『あの夜、サムライが国境の川を越えてやってきた』という歌もあったほどだ。これは行軍用の曲で、ソ連時代もロシアになっても歌われている。私が言いたいのは、あなたとも話をしたし、あなた以外にも日本人の友人はいるので、私の日本人観は180度覆った。日本人は善良ないい人たちだ。いい友人にもなれるし、心のこもった、いい人たちで、仕事熱心だ。日本が世界のリーダーであるのは、ちゃんと訳がある。多くの人間がこれほどの小さな領域に住んでいるのに、大量生産をし、豊かな経済ポテンシャルを有している。どこの国でも、信頼の置ける技術、電化製品、自動車は日本製だ。日本は今日世界に技術を提供している。もちろんこのことについて日本人、日本のエンジニア、労働者に感謝をしなければならない。働き者の国民であることは間違いない。

残念ながら今日のロシアは、ファシストどもが政権を握っている。彼らに名前をつけるとしたら、正直に言って、ファシストだ。今日、ロシアでは内政も外交も憎しみを持っている人びとによって行われている。残念ながら、外国人、よそ者に対する憎しみだ。肌の色が違う人、顔の色がロシア人とは違う人など。だから私はロシア人として恥ずかしいし、すでに言ったようにスラブ顔か、コーカサス顔かで、分けているのだから。日本がロシアの一部であったら、さらに日本顔の人びととして差別されるだろう。

私が言いたいのは、今日ロシアで起こっている政治状況は恐ろしいもので、これは日本にとっても大きな脅威だということだ。日本はロシアと国境を有しているから。しかし、日本は経済大国で、G7にも入っている。だから私が私のレベルで日本政府、日本国民にアドバイスできることは、ロシア人の政治家たちの中で、友人を正しく選ぶようにということだ。今日のロシア政府が、コーカサスの小さな民族、チェチェン人をジェノサイトしていることをしっかりと現実視しなければならない。我々がこの容赦のない、誰にも必要のない戦争を終結しない限りは、まともな人間はロシア政府とは何も話しあうべきではないということだ。まず我々がしなくてはならないことは、プーチンに、何の罪もない女性や子供を殺すことをやめるように要求すること。それができてから、プーチンと話すことも可能になる。我々のことを人間として認めるなら、立派な人間として認めるなら、自分の妻や子供、国の将来のことを考えるのなら、孫の代になって我々が抹消されるような、苗字が変えられるようなことはやめさせねばならない。まずプーチンコーカサスでの戦争をやめるよう要求すること。その後、北方領土についての話し合いや平和条約締結についてあらゆることを話し合うといい。もしプーチンがこの殺人的で、強奪的な戦争をやめないなら、チェチェン民族を全滅させることをやめないなら、プーチンが民族大量虐殺をやめなかったら、プーチンファシスト的な政治をやめないなら、彼とはまともな人間は、同じテーブルについてはならない。もしプーチンが日本に来るということになったら、日本人は通りに出て行って、みんな自分の政府に向かって、プーチンが人殺しをやめない限りは、彼が来ないようにと請願するべきだ。我々がこの世に生きていて、生活して、毎日食事をして、我々の頭の上に屋根があり、太陽が照らしてくれる一方で、我々のすぐ近くに爆弾や戦車の下で、何の罪もない人が死んでいることを理解しなくてはならない。すべてプーチンが悪い。日本人が聞いてくれるなら、これを日本人に言いたい。

 

Q ソ連時代はソ連は敵で、KGBは最も恐ろしい組織と恐れていたが、今はFSBについて知っている人はほとんどいない。ロシアはもう民主主義の国でもう恐れる必要はないと考えているが、これはまだ早計か?

プーチンが人殺しをやめない限り、民族大量虐殺をやめない限り、ロシアが本当に民主主義にならない限り、確かにロシアは民主主義の顔をして、ジェノサイトを行っているが、これは民主主義とはいえない。とにかくこれらをやめない限り、立派な人間はこの人物と同じテーブルについてはいけないと私は思う。何らかの条約締結などもってのほかだ。もし日本が今日、あのようなことを行っているロシア政府と平和条約を締結したとしたら、これこそ日本史上もっとも恥ずべき公式文書になるだろう。これはもっとも不名誉な文書になる。このような首脳部とは、何の平和条約も締結する必要はない。もし日本の政府が平和条約を締結しなかったら、この政府が正しかったことを後に歴史は証明するだろう。